少子化の正体

「80・2.0の壁」とは?

養育力の低下

減り続ける「世帯人員」

 出生率の低下が社会問題になり、少子化対策が国政でも議論されていますが、生まれたとして、子育ての基本的な単位である家庭の養育力が脆弱です。それは単に養育費用の問題だけではなく、家庭内人手不足なのです。

 ところで「一家離散」「家庭崩壊」といいますと、何か事情がありそうな家族のイメージですが、実は日本の平均的な家族像と重なります。まずは下の図を提示します。

増加が続く単独世帯と「ひとり親世帯」(制作:総務省統計局)

これは国勢調査に基づく家族型の推移を表しています。長らく標準家庭といわれた、「夫婦と子ども2人」の核家族は、いまでは全体の25%しかありません。代わりに増加傾向を示し40%に迫りつつあるのは、単独世帯です。いわゆる「おひとり様」ですから、「家族」という括りにすら入らず、世帯というしかありません。

 こうした単独世帯の増加を反映して、1世帯当たり人員は減り続け、全国平均は 2.21 人で、もっとも少ない東京都では 1.92 人ですから、もはや平均値すら複数ではありません。次に住宅事情をみますと、全世帯の44.6%が「共同住宅」に住んでいます。全国でこの比率が最も高い東京都ですと、70.3%に上ります。一方の「一戸建」の割合が最も高いのは秋田県で 80.7%です。

 以上から日本の新たな標準世帯をイメージしますと、地方部では子どもが巣立って久しい戸建てで高齢者の夫妻か単独世帯で、都市部では古い団地に高齢者・ワンルームマンションに若年者の一人暮らしです。

増加傾向の「ひとり親世帯」

 ここで家族別類型の図にもどりますと、子どもがいる世帯は、「夫婦と子ども」と「ひとり親と子ども」に分けられます。緩やか変化ではありますが、夫婦世帯が減少し、ひとり親世帯が増加傾向にあります。これら子どもがいる世帯のうち、厚労省による、ひとり親世帯に関する詳細な調査がありますので、ひとり親世帯に焦点を合わせます。ひとり親世帯の約90%が母子世帯です。これは女性側が子どもを引き取る割合が多いことを反映しているでしょう。この中には、10%の未婚の母世帯を含みますが、 母子世帯になった理由は、離婚「生別」が 93.5 %で最も多く、「死別」が 5.3 %です。一方の父子世帯になった理由は、母子世帯同様に「生 別」が最も多く 77.2 %ですが、「死別」が 21.3 %と母子世帯に比べて高くなっています。 

 つぎに就業状況をみますと、母子世帯の母の86.3 %が就業しています。調査時点の雇用形態は、「正規の職員・従業員」が 48.8 %で、 「パート・アルバイト等」が 38.8 %となっています。こうした就労による平均年間収入は、236 万円になっています。

一方の父子世帯の父の就業状況をみますと、88.1 %が仕事に就いています。雇用形態は、「正規の職員・従業員」が 69.9 %で、「自営業」が 14.8 %、「パート・アル バイト等」4.9 %です。こうして、 父子世帯の父は、496 万円となっています。

 母子世帯と比べますと、正規雇用と自営業の比率が上がりますが、これは母子・父子世帯による差異ではなく、社会全体の雇用状況の男女差を反映しているでしょう。

 次に、就労している母のうち「パート・アルバイト等の職員・従業員」の帰宅時間でもっとも多いのは「午後6時以前」ですが、、正規雇用では母子世帯、父子世帯ともに「午後6~8時」が最も多い。では親の帰りを待つ子どもは何歳でしょう。調査時点における母子世帯の末子の平均年齢は 11.2 歳で、父子世帯では、13.0 歳となっていて、ドアのカギを開けて自宅に入り、親の帰りを待てそうな年令ではあります。しかしこれは、ひとり親世帯になって年月が過ぎた家庭の末子が平均年齢を引き上げていることが影響しているでしょう。ひとり親世帯になった時の母の平均年齢は 34.4 歳で、 父の平均年齢は 40.1 歳です。その時の末子の平均年齢をみますと、母子世帯では 4.6 歳で、父子世帯では 7.2 歳ですから、日没後の留守番は不可能です。それどころか、母子世帯では保育園へのお迎えが必要になります。

養育費は、社会的な諸制度を利用して乗り切ったとしても、家庭内のマンパワーが不足しています。やはり親と同居する家庭が一定割合で存在し、その割合は、父子世帯の方が高い。具体的には、母子世帯の平均世帯人員は、3.20 人で、子ども以外の同居者がいる世帯は 35.2 %で、親と同居する世帯は 24.2 %となっています。一方、父子世帯の平均世帯人員は 3.42 人で、子ども以外の同居者がいる世帯は 46.2 %で、親と同居する世帯は 34.3 %となっています。

世帯人員が少なく、かつ専業主婦が珍しくなった現代においては、3世代同居ではなくても、近隣に住む親の人的支援がなければ、子育ては厳しいということです。事情は、かつての標準世帯である「夫婦と子ども世帯」でも同じでしょう。夫婦で正規雇用であれば、世帯収入は母子・父子家庭の合計額近くになり、恵まれているように見えます。しかし家庭内でのマンパワーが限界で、夫婦間での口論が激化しやすい心理状況にあるでしょう。

 さて以上のように世帯人員の減少は、高齢者単独世帯の増加による課題のみならず、子育て世代にも大きな影響を与えています。こうした「一家離散」傾向は、皮肉なことに、社会制度も影響しているでしょう。単身高齢者や母子世帯を支援する制度設計は、独居や離婚に誘導する副作用が一部で発生するからです。

 また住宅建設の面でも、長引く低金利政策によって、ワンルームマンションが「利回り何%」といった、金融商品であるかのように宣伝され、資産家への建設推進が行われてきたことも影響しているでしう。地方都市では飽和状態で、中心部から少し離れると、手ごろな家賃の空室が十分にあり、単独世帯を営みやすい状態です。

ところで「子どもは社会の財産であり、社会全体で育てるべきである。」という意見も一部にはあります。確かに、これは道徳的には正しいでしょう。しかし、子育ての温床は家庭であり、子どもたちは、そこで最も長い時間を過ごし、基本的な躾(しつけ)を受けるのです。つまり出生数を回復して、社会の永続性を回復するには、「家族の回復」が欠かせないのです。家庭は、また社会の最小構成単位でもありますから、「社会全体で育てる。」とはいっても、家庭がなければ社会そのものが歪に変貌しますから、本末転倒なのです。

ベビーブームの背景

 平均寿命と出生数は負の相関(反比例関係)にありますから、平均寿命が短縮すれば出生数が回復する要因になります。ただし、生活資源が回復することが前提条件になります。歴史的に各国で散見されたベビーブームの背景には、これら平均寿命の短縮と、生活資源の回復が、その背景にありました。こうした背景は、サバンナの動物たちをイメージすれば分かりやすいでしょう。たとえば干ばつが続けば、動物たちは飢餓に陥り、個体数は減少します。死亡率が上がるからです。平均寿命が短くなっているのです。個体数は直接的に数えることができますか、平均寿命は観察と計算が必要ですから、簡単には知ることがきません。しかし、超過死亡があれば、平均寿命が短縮していることは明らかです。この状態で、雨に恵まれ草原が回復すれば、出生数が急回復するでしょう。ただし復元可能な群れの大きさが保たれていればという、もう一つの必要条件があります。

戦後日本のベビーブーム

第二次大戦中の日本では、東京大空襲で一夜にして10万人、ヒロシマで14万人、ナガサキで7万人の犠牲者を始め、一般市民80万人が亡くなりました。戦闘員の死亡者は210万人に上ります。戦時中には人口動態踏査は中断されていましたが、平均寿命は間違いなく短縮していたでしょう。

 終戦とともに、開戦前の50%にまで低下していたGNPが復興景気で回復して行きます。平均寿命の短縮と生活資源の急回復が揃っていますから、やはり年間200万人を超えるベビーブームが3年続いて、合計750万人の子どもが生まれました。

米国のベビーブーム

米国本土は大戦による戦火をまぬがれましたが、31万4000人の戦死者を出しています。これは、戦闘員が20才代の若者中心ですから、平均寿命の相当な短縮をもたらしているはずです。さらに大戦終結後の5後には朝鮮戦争が勃発して、3万3000人が戦死しました。この後しばらくは、戦争は冷戦構造の中に封印されて弾丸の撃ち合いは起こらず、米国社会は非戦時体制に戻ることができました。1955年に出来たこの体制は、米国経済を活性化させ、株価も1929年の「暗黒の木曜日」の暴落以前のレベルにやっと回復しました。これはマクロ経済回復の一端を示しています。つまり、平均寿命が短縮している状態での、生活資源の回復ですから、やはり米国史上最大のベビーブームが起きたのです。

中国のベビーブーム

 1960年代の中ごろから後半にかけて、中国でも史上最大の出産ラッシュが起きています。超過死亡率を上げたのは、戦争ではなく、「大躍進政策」の失敗でした。朝鮮戦争が終わると、中国政府は経済発展に力を入れて、農業から工業への産業転換を図ろうとしました。まずは製鉄です。小規模な製鉄所が多数建造され、伝統的な製法で鉄が増産されましたが、その品質は当時の世界基準からしますと粗雑で、使い物にならなかったと言われています。しかし地方部では、中央政府から課せられたノルマを達成しようと、需要を無視した製鉄が続けられました。農村部の男性は、製鉄業に駆り出され、農業の担い手は女性だけになって、農業の生産高は落ちていきました。

この農業生産高の低下は、女性たちが農作業に不慣れであったからだとか、あまり働らかなくても人民食堂で食べることができたからとか、あるいは鉄の生産を嵩上げしようと、農機具を取り上げて溶かしたからだとか、また食料危機の初期に穀物の種を食べたからだとか、諸説あります。

しかしすべての説の結論は同じで、工業生産高の異常は増加と、農業生産高の急減によって経済は混乱に陥りました。食料不足による飢餓と関連死者数は、中国政府にとって蓋をしておきたい惨事ですから正式な数字は公表されていませんが、1500万人とも4000万人とも言われています。超過死亡による、明らかな平均寿命の短縮が起きています。

3年間に及ぶ飢餓が収束に向かい、やがて経済状況がもとに戻り、生活資源が回復すると、やはり出産ラッシュになったのです。

ベビーブームが起きなかったアイルランド

1841年に817万人だったアイルランドの人口は、10年後に900万人に達するだろうと見込まれていました。ところが実際には655万人に激減しました。いわゆる「ジャガイモ飢饉」の結果です。

南米からヨーロッパに持ち込まれたジャガイモは、ヨーロッパ人の食料として定着していきました。とくに気候の変動が大きいアイルランでも、よく育つ作物で、最盛期には家畜の飼料それでも余れば、追肥になるほどでした。一般の家庭では食料の一部でしたが、小作農の家庭では、ジャガイモがすべてでした。ジャガイモのおかげで、アイルランドから飢餓はなくなったかにも見えました。

しかしジャガイモ疫病菌が、アメリカ大陸から広がり、アイルランドのジャガイモを土の中で黒く腐食したのです。ヨーロッパ全体に広がった疫病ではありましたが、アイルランドでの被害が大きかったのは、貧困層にはジャガイモがすべてで、穀物を買うおカネがなかったからでした。イギリス政府は、貧困は自業自得なので、貧乏人は自助努力することが大切だという考えで、救済には本腰を入れませんでした。

ジャガイモ疫病は数年で治まりましたが、数年もの空腹には耐えられませんから、やはり飢餓とそれに続発する疾病で、150万人が死亡し、100万人が北米大陸を中心に移民しました。飢饉が落ち着くとベビーブームが発生したかというと、逆に移民は続き、残った若者は非婚・晩婚が多くなり、1900年まで人口減少は続きました。飢饉前の人口を回復したのは、1960年代になってからのことです。

中国の大飢饉と同じような状況であるのに、アイルランドでは、なぜ人口が回復しなかったのでしょうか。それは、まず隣接するイングランドでは産業革命が起きていましたから、ジャガイモだけでは生きてゆけない時代に入っていからでしょう。生活資源の回復のためには、人並の収入が必要だったのです。それに移民による若者の流出も、人口回復への直接的な打撃になったのでしょう。また若者の流出による間瀬的な打撃は、労働力を失い経済発展が遅れて、生活資源が回復できないことです。

 当時のアイルランドの収入源は、移民者からの仕送りでしたから、日本の経済高度成長期の日本の地方部と同じ構造でしょう。やはりベビーブームはなく、少子高齢化が居座り人口は静かに減少したのでした。

超過死亡率を上げる要因

自殺・殺人・戦争

  日本では、気候変動による飢餓を解消し、不可抗力の自然災害による被害を最小化する取り組みも続けられています。具体的な数値をみてみましょう。日本の国土面積は世界の0.29%で人口は2%以下です。しかし、地球上の活火山の7.1%が日本に集中し、また列島全体が地殻プレートのギャップ上にあり、マグニチュード6以上の地震の8.5%が日本で発生しています。また日本には毎年台風が上陸しますから、世界の災害による被害金額の17.5%が日本で発生しているのですが、災害による死亡者比率は1.5%で、人口比と変わりがありません。これは国土強靭化というよりも、国民の集団的避難行動が優れていることを示唆しています。

 しかし、人為的に死亡率を上げる自殺・殺人は止まっていません。これらの、いうなれば人為的死亡は人類固有のものですから、高次脳機能の暴走と関連が深いでしょう。

 さて世界には自殺率が高い国と比較的に低い国があります。例えば日本やフィンランドは自殺率が高い国です。しかし殺人は少ないのです。逆に米国や南米諸国など、、自殺率が低い国では殺人が多い。

 人口10万人あたりの殺人事件は、米国5.3 フランス1.3 英国1.2 ドイツ1.0 日本0.3です。日本での殺人件数は年間300人を切っています(2016年)。一方、米国では一日平均316人が銃で撃たれ、106人が死亡しています(2022年)。

 このように日本は、殺人件数が極めて低い治安が優れた国なのですが、一方の自殺者数は、年間2万人を越えていますから、殺人数の70倍にのぼるという計算になります。

 それはどういうことなのか。つまりは殺人と自殺は、たとえば殺人の凶器と自殺の手段をともに銃だと仮定しますと、銃口を他人に向けるか、自分に向けるかだけの差で、人為的に超過死亡率を上げる要因である点では、変わりがないということです。

殺人を拡大したものが戦争で、銃は武器と言われます。しかし、いずれの場合においても、十分に生存可能だった人が、銃弾によって重要臓器が破損されて死亡したという、法医学的な見立てに差はありません。

 こうして超過死亡率には、上昇するベクトルが常に働いています。ただ難を逃れて生存している大多数の人たちの寿命が伸びれば、統計的に打ち消されて、表面化しないだけです。

ところで、不可解なのは、自殺率が増減を繰り返していることです。自殺率のコアを形成しているのは、その社会が持つ抑うつ系の精神疾患罹患率かも知れません。日本におけるこのコアの値は、おおよそ年間1万人としますと、人口比で1%以下ですから、精神疾患の推計罹患率と、それほど乖離していないでしょう。問題は、自殺率を増加させる要因は何かということです。

社会学創始者といわれるデュルケムは、個人の自由意思で行わるように見える自殺は、多くが社会的なものであったことを統計的に明らかにしました(「自殺論」)。そして次の4つの型に分類しています。

自殺の四つの型

  1. 社会との結びつきが弱くなったために起きる自殺「自己本位的自殺」(離婚者 破産者 失業者 高齢者)
  2. 社会との結びつきが強くなったために起きる「集団本位的自殺」(戦争時の自爆攻撃が典型的な事例)
  3. 社会的規制(抑圧)が弱くなったため起きる「アノミー的自殺(錯乱状態の自殺)」(社会的制度の崩壊や経済混乱)
  4. 社会的規制(抑圧)が強くなったために起こる「宿命的自殺」(武士の切腹が典型例)

 さて日本における自殺の原因・動機としてあげられているのが、多い順に1.健康問題 2.経済・生活問題 3.家庭・職場(学校問題)ですから、デュルケムの4型でいえば、「自己本位的自殺」と「アノミー的自殺」でしょう。加齢とともに各種疾病罹患率は上がり、また孤独感も強くなりますから、自己本位的な自殺に結び付きやすいでしょう。この傾向は、地球規模で見た場合に、自殺率は北半球で高く、しかも緯度が上がるにしたがって、増加する傾向がありますが、その理由を説明することができるでしょう。すなわち北半球の高緯度地域では平均寿命が伸びて、他の地域よりも高齢化が進行しているからとも言えるからです。

 また日本で自殺率が、高い地域は、東北・山陰・四国南部・九州南部ですが、これらの地域もまた国内でも特に、高齢化が進行している地域です。さらにこれらの地域の県民経済は、全国の1%にも満たない5兆円以下で、かつ経済成長率も低いという状況にあります。つま若年者は仕事を求めて流出し、高齢化がますす進行するのに加えて、残された人々も、経済・生活問題に直面しやすいといった状況が、容易に推測できるのです。

 地域による自殺率の高低の説明に、気候や県民性などを持ち出すと、話としては興味深いのですが、説明がつきません。やはり高齢化の進行といった人口動態や、地域経済の停滞といった部分に焦点をあてますと、一部分だけだとしても鮮明に映し出すことができるのです。

経済が停滞した旧社会主義国の自殺率も高かった。

  かつて1998年から14年連続で、日本での年間自殺者数が3万人を越えていました。その頃に、日本以上に自殺率が高かったのは、ロシアや東欧などの旧社会主義国でした。政治・経済・文化など、どれをとっても日本とこれら旧社会主義国の共通点はみあたりません。しかし、陥った経済状況は、よく似ています。

まずは、90年代以降、日本も旧社会主義国も国内経済が停滞したということです。つまりは、日本も旧社会主義国も、冷戦構造の崩壊にうまく対応できなったのです。少なくても、ソ連崩壊から10年程度は、ロシア経済は下り坂を転がりました。日本と同じように、「失われた10年」がロシアにもあったわけです。こうしたマクロ経済の停滞と同じ時系列で、自殺率が上昇しています。ソ連崩壊後のロシアでは、社会的制度や秩序も崩壊しましたから、文字通りアノミー的自殺も増加したでしょう。

こうしたロシア国内経済に見切りを付けた人の中で、冷戦時代の東側を支えた優秀な研究者などを皮切りに、人口の流出が起きました。日本の場合には、経済が停滞した県から繁栄している都道府県へ人が移動していますが、同じ現象です。ただ、当時のロシアに繁栄しているところはありませんでしたから、多くの人びとが旧西側へ流出したのです。

 しかしながら、国内での生活もままならず、かといって外国に出て行くこともできない人びとが大多数だったのです。こうした社会情勢のなかで、アルコール依存症が増え、自殺率を押し上げています。「経済停滞」の中で「精神疾患」が増加して、それが「自殺」につながっていったということです。こうして、ロシアでは男性の平均寿命は短くなり、ついに60才を切ってしまいました。「ロシアに年金制度はいらない。」と揶揄されたほどの、短い平均寿命です。

デュルケムは、前述の「自殺論」のなかで次のように述べています。

歴史の教えるところでは、発展と集中の途上にある若々しい国では自殺は少ないが、他方、社会が崩壊するときにはそれにつれて自殺が増えていく。ギリシャやローマでは、都市国家の古い機能が揺らぎはじめてから、自殺があらわてきたが、その自殺の増加は社会の凋落の足どりを刻んでいた。それと同じ事実はオスマン帝国にもみられる。 

 以上の引用をもとに考察しますと、隆盛を極めて「80・2.0の壁」に付き当たり、経済的にも社会的にも衰退期にある先進国では、これ以上の生活資源の増加は見込めませんから、平均寿命を落として「70・2.5」に戻ろうとする圧力がかかっている。日本においては、その兆候の1つが自殺率の上昇であると、考えられるのです。

 これでも生活資源と寿命のつり合いが取れなけらば、次に待っているのは戦争です。

超過死亡率と過小死亡率の危うい均衡

 超過死亡率とは何か。  

 成人であれば、性別と年令で、これから1年間の生存率が統計的に計算されています。それをもとに、次年の死亡数や年令ごとの平均余命が予測されています。日常生活に関連した身近なところでは、生命保険料が計算されているわけです。日本では、大きなトレンドとしては、戦後一貫して寿命は伸びています。社会が豊かにそして衛生的になれば、各年齢での一年間生存率は、連続的に伸びて、「過小死亡率」としてまとめられるのです。しかし、詳細にみますと、近年だけでも、たとえば東日本大震災や新型コロナ流行の影響で、寿命が短縮したことがありました。こうした、予測値よりも増加した死亡率が「超過死亡率」といわれます。

 つまり平均寿命は、人類史といった長期の時間軸では伸び続けていますが、短期的には「揺り戻し」が絶えず発生しているのです。では超過死亡率を上げる要因は何でしょうか。

それはまず飢餓です。人口に対して食物が不足していている状態ですが、その背景には異常気象や害虫・作物や家畜の疫病があります。また日本に多い自然災害は、まず直接的に、そして時間をおいて田圃の荒廃による飢餓の発生で、二次的にも超過死亡率を上げるのです。これらは動物たちも同じ運命にあるのですが、人間にはさらに人間特有の、超過死亡率を上げる要因があります。それは自殺・殺人そして戦争です。

 それでは超過死亡率を上げる主要な要因について、具体的に見ていきましょう。

寿命に揺さぶりをかける気候大変動

化石燃料の時代よりも遥か以前から、地球が温暖化と寒冷化を繰り返していること良はよく知られています。それらは数万年単位の大波・数百年単位の中波・数十年単位の小波で形成されているといいます。実証的には、南極や氷河の氷床を円柱形にくり貫いて断面を見ると、年輪のような重なりがみられ、それで過去の平均気温を仔細に推測しています。

それらのデータや史実によりますと、紀元800年から1200年までのヨーロッパは、比較的温暖な時期で「中世温暖期」ともいわれます。現代では、温暖化が人類の危機として喧伝されていますが、中世温暖期はむしろ、神の恵みでした。

 それは、暑夏と暖冬のおかげで、小さな村落のごくわずかな土地や、以前よりも高地で、作物を育てることができたからです。現在のスイスなどの山岳部においても、氷河が後退して牧草地が広がりました。こうして食料は増産されたのです。

ただし、食料が充足し過小死亡時代に入り、人口が増加しましたから,、食料不足から解放されることはありませんでした。つま1人当たりの取り分は増えませんでした。もっと長いスパーンで人類史をみましても、紀元0年から産業革命期の1800年までで、1人当たりの生産高は年平均0.02%しか増加していませんから、まったくと言っていいほど、生活水準は上昇しなかったのです。この状態は、「マルサスの罠」ともいわれます。具体的には、人口は級数的(掛け算)に増加するが、食料は算術的(足し算)でしか増えないから、増産分は人口の増加ですぐに相殺され、民衆は貧困から抜け出せない、という説です。

 とくに農業に適していない極限の環境では、「マルサスの罠」が顕著に待ち構えています。たとえば作物が生育する期間が短いスカンディナビア半島の、やせたフィイヨルドはすぐに人口過剰になりました。そして彼らは海へと乗り出したのです。こうした古代スカンディナビア人はバイキングやノースマンとして知られ、主な生業は交易と、それを奪おうとする海賊行為だったことは、良く知られています。あまり知られていない、もうひとつの彼らの生業は「タラ漁」でした。乾燥させたタラは、キリスト教で、肉を食べてはいけないとされた特別な日でも、摂食が許されていただけではなく、陸上は慢性的な食料不足でしたから、貴重なものだったのです。

 タラの群れは、比較的に寒冷な水温を好むため、温暖化にともない北上しました。漁師たちもそれを追い北海へと漁場を求めて北上したのでした。北海の氷も緩み、スカンディナビア半島の北側まで航海する者たちも現れました。そしてその過程で「世界最大の島」を発見しました。発見とは、もちろんヨーロッパ人にとってのもので、そこにはすでにイヌイットが定住していたのです。

 この「氷の島」をグリーンランドと名付けたのは、ユーモアなのか、あるいは土地を売るためのペテンだったのかは分かりませんが、東部と西部の2か所に新たな入植者たちが移り住みました。これらの地域では、夏のほんの短い期間ではありましたが、緑の大地が現れ、牧畜が可能になったのでした。

寒冷期の到来で元の木阿弥

 この時期から、おおよそ100年かけて、気候の中波は寒冷化に向かいました。それは静かに移行したわけではなく、いうなれば100年に一度という規模の異常気象が繰り返し起きました。その一つが大雨です。山岳部の牧草地帯では氷河からの清流は土石流になり、草原を飲み込みました。またオランダは、低地が海面に沈み「ゾイデル海」になりました。オランダがこの水没地を干拓によって回復し終えたのは20世紀になってからです。

 教会の関係者がグリーンランドの東部植民地を訪れると、そこはすでに廃墟でした。家畜が数頭生き残っているほか、人影はありませんでした。爪の先まで食べられたと思われる雷鳥の骨は発掘されましたが、埋葬してくれる人がいなかったはずの、最後の生存者の遺骨も見つかっていません。彼らがどういう最後を迎えたのかはわかりませんが、寒冷化で大地は氷に覆われたまま牧草は育たず、食料が底をついたことは、確実だと見られています。

 ただでさえ短いヨーロッパの夏の日照時間が、さらに短くなれば、作物は育たず、飢餓が蔓延しました。飢餓がいっそう深刻化したのは、気象変動の影響が大きいのですが、間接的医にはその前の世紀までの温暖化の時期に人口が増加していたからです。11世紀末には140万人だったイングランドの人口は、1300年には500万人まで増えていました。また同じ時期のフランスの居住者は、620万人から1760万人に増加していたのです。ヨーロッパ全土が同じような人口動態でした。

 このあとヨーロッパの人口は、大きな流れとして減少に向かうのですが、その要因は少子化ではなく、寿命の短縮つまり超過死亡率の上昇だったということです。

 さらにこのあと、100年戦争やペストの流行によって、超過死亡率は上昇トレンドに貼りつき、地域によっては人口が1/3あるいは1/2にまで減少する地域があらわれました。

 つまり、人類の寿命の伸びは、自然天与のものではなく、過小死亡率と超過死亡率の均衡の上に乗っているのであり、大雨が3日も降れば崩れるほどに、危ういものなのです。

奴隷制度を持ったことがない日本文明

奴隷なしにはローマは成らず。

 日本は人口が減少して労働力が不足しているのだから、もっと移民を受け入れるべきである、という論調が強くなっている一方では、次世代に禍根を残すから、慎重に考えるべきであるとする論も多くあります。しかし、なし崩的に外国人労働者は増加しています。さて、多くの移民を受け入れているのは、欧米です。彼らの歴史を振りかえれば、奴隷制度と切り離すことができません。現在の西洋文明の精神的支柱は、キリスト教ギリシャ哲学でしょう。古代ギリシャの哲学や自然科学の萌芽それに直接民主制など、輝かしい史実が教科書に書かれています。しかし、その社会を支えたのは奴隷制度であることは、ほとんどの中高生は知らないでしょう。

 奴隷とは、所有資産として譲渡・売買の対象となる人々のことです。奴隷と言いますと、鞭を打たれ酷使される「ガレー船」をイメージしやすいですが、家事や子ども世話など、現在も職業として存在する業務が多くありました。ですから、当時の最高の戦利品は、領土や金品ではなく奴隷だったのです。所有する奴隷の数が、市民のステータスを表すほどでした。

古代ギリシャ都市国家に、選挙権を持つ市民がどの程度の人口比だったかは、資料を持ち合わせていませんが、ともかく生活のための業務はすべて奴隷がやってくれますから、市民は哲学や政治学など、浮世離れした形而上学的なことを考えておけばよかったのです。そしてその頂点に立ったのが、プラトンソクラテスアリストテレスヒポクラテスなど、おそらく永遠にその名を遺すであろう偉人たちです。ちなみに子育ても奴隷がしてくれますから、子どもの数が増えそうなものですが、当時のギリシャでは少子化が進行したといわれています。

 屋外の仕事においても奴隷は使い勝手の良い人的エネルギーを発揮してくれます。現在でもエンジンの動力を表す単位とし「馬力」が残っていますが、1馬力は12人力です。しかし馬1頭を持つよりも、12人の奴隷のほうが有益です。なぜなら奴隷は食事と排泄は自立していますし、言語を理解して複雑な作業をこなすからです。

 ちなみに古代メソポタミアの神殿を初め、エジプトのピラミッドやスフィンクス・中国の万里の長城マヤ文明の祭祀場など、古代の巨大な建造物はすべて人的エネルギーによるものですが、確かではないのは、その労働力のうち奴隷の割合はいかほどだったのか、ということだけです。このように東西を問わず、古代文明は戦利品として得た奴隷を使役してきのですが、奴隷制度が最も浸透したのは古代ギリシャ都市国家ローマ帝国とされています。

 当時のギリシャでは、風車で鳴るオルゴールが、ローマでは歯車を使用して水平に回る水車がすでに考案されていました。しかしこの自然エネルギーが、家内の重労働であった石臼で粉を挽く動力としては使用されませんでした。奴隷が安価でしたから、女性たちが昼夜を問わず重い石臼を廻し続けたのです。1人の奴隷にかかるコストは、重労働が可能な2000カロリー程度の食料と粗末な衣服だけでよいのですから、ギリシャやローマが滅んでも、奴隷制度はなくなるどころか、大航海時代に入ると、奴隷貿易という大きな産業になったのです。

産業革命と同時に啓蒙思想が出て来ましたから、人権や人道意識が広がり、奴隷貿易を是認することは西欧社会でも困難になりました。その代替となったのが、武器と軍隊の近代化を遂げた西欧による植民地の獲得競争です。現地民を最低の報酬で使役して、作物・製品・富を本国に持ち帰る政策です。しかし第二次大戦終結後に、かつての植民地は独立を果たしました。

 西欧に限ったことではざありませんが、豊かな国の人々は、いうなれば3KY(きつい・きけん・汚い・安い)仕事を敬遠します。対策として、旧植民からの移民を受け入れてきました。植民地時代に英語やフランス語といった、宗主国の言語を公用語として強制していましたから、国境を越えて生活する上で最も重要な「ことばの壁」は,ないも同然です。

 さらに東西冷戦終結後は、経済や治安が破綻した中東やアフリカ諸国からの難民も殺到し、欧米では移民問題が政治的対立を引き起こすまでになっています。

 西欧に限らず移民の国アメリカでも、移民を受け入れてきたため、総人口は保たれていますが、もともとの市民社会少子化が進行しています。古代ギリシャと同じ人口動態です。

リンカーンよりも、300年先に奴隷解放をした豊臣秀吉

では日本はどうだったでしょう。確かに売買譲渡される人々が存在しました。しかし奴隷制度を是認したことは、いちどもありません。もっとも多かったのは無政府状態であった戦国時代です。日本で最初に黒人奴隷を譲渡されたのは、信長でしょう。ポルトガル商人が連れていた黒人を目にした信長は、「体に何か塗っているのであろう、洗え。」と家来に命じたというエピソードが残っています。その結果として、信長は、黒い肌の人間がいるということを、初めて知ったと言います。信長の気を引きたいポルトガル商人は、この奴隷を信長に「譲渡」したのでした。この黒人は、ポルトガル人のボディーガードも務めていたのでしょうから、体格も良く文武ともに優れた素養があったのでしょう。ついに「弥助」という名を持った武士になります。そして信長に伴って本能寺に宿泊していますから、信長の信頼を得て側近になったことを示唆しています。

 弥助を得た信長がポルトガル商人に依頼して、もっと多くの黒人奴隷を確保して、軍勢を強化するのは、困難ではなかったでしょう。しかしそうした史実はありません。

 戦国時代の日本では、入国した弥助は例外で、むしろ「奴隷輸出国」でした。もちろんそれは、まともな商いではなく、悪党たちの仕業でした。繰り返される大小の合戦で、奴隷狩りが行われていたのです。この構図は、古代ギリシャやローマと同じですが、違うのは日本列島内で行われたことと、奴隷狩りを行ったのは、身分の低い雑兵たちだったのです。農村部からあふれた若者たちの働き場は、戦場だったのです。しかし戦場のフリーターたちには、戦勝したところで、俸禄はありませんから、略奪と奴隷狩りが報酬だったのです。こうして駆り出された、婦女子を含む人々は、国内外に譲渡・売買されていました。当時のポルトガル商人らは、マカオから日本に綿織物を運び、戻り船では銀・刀剣・そして奴隷を積み出していたのです。マカオから先の売買先は定かではありませんが、フィリピンには多くの日本人奴隷や傭兵が、また現地のスペイン人家庭で働く日本女性がいました。こうして日本から連れ出された人々は、10万人に上るともいわれています。当時の人口比の1%以上ですから、この比率を現在人口にかけますと、120万人ということになります。

 やがて秀吉の天下になり、たまたま九州に来ていた彼は、日本人がポルトガル船に押し込められていることを知りました。なぜ「買うのか。」とポルトガル商人に聞くと、「日本人が売るからだ。」と答えたと言います。秀吉は、奴隷を買い戻し元の在所に帰しました。

そして、「人身売買禁止法」を発令して、これまでの奴隷の売買はすべて無効であり、もとの在所にもどせと発令したのでした。もちろんこれは国内向けで、海外には及びませんでした。

 やがて江戸幕府体制になりますと、、東南アジアでの覇権を争う国が2つのグループに分かれます。イギリス・オランダ対スペイン・ポルトガルの構図です。イギリス・オランダ軍は、平戸商館を拠点に日本を兵站基地にしようとしました。すべての戦場を閉じた日本には、高性能の鉄砲や刀剣が豊富にあったからです。1621年に、イギリス・オランダは、幕府に対して2-3000の軍を派遣するよう要請しました。しかし、幕府は諸国との友好中立と交易の自由と安全を原則として、国際紛争への介入に慎重であったため、これを断ったばかりか、「武器・奴隷・傭兵の禁輸令」を出したのでした。

 こうした政策が「鎖国」の一端とされますが、交易は行うが人の出入国と武器輸出は禁じるということでした。西洋に対しては長崎の出島だけ開いていましたが、当時の物流はそれで十分だったともいわれます。

 ともかくもこれで日本からの奴隷や傭兵の流出は完全に止まりました。これによって、270年にも渡り、平和で治安が良く、子どもから高齢者まで安心して暮らせる「話せば分かる」社会が形成されたのです。確かに、身分制度がひかれましたが、奴隷制度とは比べものになりません。日本文明は、外国人奴隷の使役による甘い汁を吸ったことがありませんから、外国から安価な労働力を入れようする発想は、社会に馴染まないでしょう。

 では、日本はどのようにして3KY仕事を解決したのか。それは労働環境の改善です。これで3K(きつい・きけん・汚い)は軽減されました。最後のY(安い)は、もっと簡単でした。賃金を上げれば良かったのです。

こうして、かつて「一億総中流」社会が出来たのでした。しかしながら、、東西冷戦後に吹き荒れたグローバリズムの嵐の前で、風前の灯になっているのです。

 つまり日本文明に合わない、言い方を替えますと日本の精神風土にあわない制度を、低賃金労働者を雇用したい思惑だけで、導入しているのではないでしょうか。