少子化の正体

「80・2.0の壁」とは?

なぜヒイ様は、イノシシを丁重に塚に葬り、アシタカを見送らなかったのか。

  ヒイ様はタタリ神となった巨大イノシシのナゴの守を弔い、塚を築きました。それはすべての生き物の御霊を神のもとへ届ける縄文人の末裔でもあるエミシの慣習によるものだったのかも知れません。

 しかしこの行為は、巨大イノシシがナゴウイルスに感染していたとしますと、合理的な方法でもあります。遺体を放置しますと、そこから「呪い」すなわち感染が広がるリスクが高いのです。もちろん現代の基準からしますと、感染に対する防御服はありませんから、埋葬行為そのものが感染につながる危険性はありますが、これは物語ですから、厳格なことを挙げる必要はないでしょう。

 「呪い」を避けるために埋葬よりよも良い方法は、火事の心配がないところであれば、遺体の上に枯れ枝を積み上げて火を点けること、すなわち火葬です。

 こうした埋葬や火葬といった行為は人間の葬儀として長く営まれてきました。少なくても中世までは、人の死は悪霊の仕業で「呪い」や「タタリ」に結び付きやすいものだったのです。そして死は「ケガレ」として、忌み嫌われていました。

弔いは感染制御の手順でもあった

 1人の死が廻りの者を祟り、同じような死を招く。つまり死者の家の周りは死神が闊歩する。そのような恐れを人々が抱いたのは、実際にそうだったからでしょう。1人の死が家族や親類を冥土への道連れにし、終いには集落全体に禍を及ぼす。それはなぜだったのかといいますと、伝染性疾患による死亡が多かったからです。

 現在の日本での死因のトップは悪性新生物すなわちガンです。もちろん若年者の悪性疾患はいくらかありますが、やはり悪性新生物は加齢とともに増加する疾患です。しかし近代以前は「人生わずか50年」ですから、ガンになる前に亡くなっていたのです。また現在は心血管疾患が死因の2番目ですが、やはり動脈硬化を起こすほどの高カロリー食とは無縁だったのです。

 結局のところ、長い時代にわたって感染症それも小児期には麻疹や風疹などありふれた疾患で、成人してからはカゼや疲労から結核を併発し、ときには天然痘の蔓延など、感染症による死がありふれていたのです。

 つまり死者を出した家には「ケガレ」があったのではなく、病原体による「汚染」があったのです。

 ここで仏式の一般的な葬儀や法事の様式を、感染制御の観点からみますと、合理的であることがわかります。本来の仏教は葬儀や法事の仕方については、何も言及していないといいますから、風習と宗教感が癒合したのでしょう。

 まず不幸があれば、身近な人たちで御通夜をします。線香を絶やさないようにという習慣があります。古来の日本人の死生観では、死とは肉体と魂が乖離した状態とされますから、線香の煙を伝って、魂が肉体に戻ることを願っているのだという見方もできます。しかし感染制御の視点から評価しますと効果は定かではありませんが、病原体を煙で消して空気感染を防ごうとしているようにも見えます。

 また頃合いをみて納棺の儀式があります。現在の棺は木製がほとんどですが、古代には大陸からの影響か甕(かめ)が使用されていたらしく、九州北部では工事現場などから多く出土しています。

 納棺することによって死者の排泄物や分泌物が外に漏れ出ることを、いくらかでも防ぎますし、墓場まで運ぶときに遺体との接触を最低限に抑えることができます。

 たとえ「村八分」の処分を受けている家に対しても、二分の付き合いはやむを得ず残して、葬儀は共同体で協力したのです。残された二分とは、葬儀のほか火事だったのです。どちらも放置すると、自分に禍が及ぶからでしょう。

 また墓掘りに提供された食事や道具を持ち帰ってはいけない。くり返されている埋葬によって、墓地そのものがすでに病原体に汚染されているかも知れないからです。

 また自宅への弔問者には、一杯のお酒と塩が提供されるのが普通でした。これもアルコールと塩分が「ケガレ」すなわち汚染を減ずると信じられていたからでしょう。

 死亡から最初の7日間は、葬儀に深く関わった近親者は精進料理を食べて、肉はもちろんのこと魚介類も口にしません。これは近親者は感染症の潜伏期にあり、食中毒を起こすと致命的になりますから、それを避けていわば病人食を摂取したのでしょう。

解禁されるのが精進揚げです。現在は遠方からの会葬者も多いですから、火葬後に行われることが多いようですが、かつて地域社会で生活していたころは、初七日の法要が済んでからでした。

 地域によっては、この時の料理は喪家の釜戸を使わず、親類の家で料理したものを持ち込んでいたようです。調理での病原体の混入リスクを徹底して避けています。

 さらに49日の忌明けまでは、仕事はもとより、墓参り以外の「不要不急」な外出は「自粛」して、ひたすら自宅に篭っていたのです。この忌明けや、所によっては百日の節目に喪家で餅をつく習慣があります。感染が起きていないことがやっと共同体から認められたということでしょう。

 しかし生活はその年いっぱいは制限されていました。冠婚への参加や神社へへの参拝はできないのです。お祭りは、現代風に言いますとエンタメ系ですから、やはり自粛が求められたのでしょう。

 その名残りが現在の「喪中の葉書」ではないでしょうか。古くは親類縁者の家に伺い年始の挨拶を交わす習慣でした。迎える家も玄関で帰すわけにはいきませんから、食事やお茶に誘ったでしょう。しかし喪家では感染再発の防止から、そうしたことを自粛していたのです。

 しかし近代化とともに互いに遠方に住むようになり、年賀状をもって年始の挨拶とするよう簡素化されたのですが、年始の挨拶まわりを自粛していた頃の習慣が残り、「喪中の葉書」で非礼にならないようにしているのではないかと考えられるのです。

 生きている感染者は集落を追われた

 

 さてアシタカがこれから向かう旅の終着地にタタラ場があります。そこに全身を包帯で巻かれ、その上から白装束に白頭巾そして顔にはマスクのような布をつけ、眼球だけが露出している数人の男たちがいます。座ってなんらかの作業をしているのですが、その中のひとりが静かに語ります。

「行くあてのないわしらをエボシ様だけが受け入れてくれた。その人はわしらを人として扱ってくれたたったひとりの人だ。わしらの病を恐れず、わしの腐った肉を洗い、布を巻いてくれた。動けるものには仕事もある。」

 彼らは「病者」といわれていますから、この外見や男が示唆する苦難の人生はなんらかの病気それも伝染性疾患による不幸であることがわかります。ではこの疾患が何であるのか、具体的な病名は語られていません。もっともこれは物語すなわちフィクションですから、現実に存在した病気である必要はないのです。

 とはいえこの男の話とまったく矛盾しない疾患にハンセン氏病があります。アシタカの時代はわかりませんが、つい近年まで日本では「ライ病」といわれていました。ハンセン氏病はこの疾患の発見者であるノルウェーの医師の名に、ライ病は起因菌の名にそれぞれ由来しています。

 ハンセンがこの疾患は感染症であると確定したのは19世紀のことですが、それらしき疾患は、紀元前のインドや中国の古文書それにキリスト教の聖書にも記載があるといいます。そして共通に天罰や「呪い」として、差別・迫害の対象になったことを示しているのです。こうした負の歴史をいくらかでも中和しようと、それから数千年後の日本では疾患の呼称を変更したわけです。

 ではなぜこの疾患がそれほどまでに人々を恐れさせ、社会的な迫害にまでいたったのでしょうか。それはまず感染力も弱くかつ進行も緩徐だったからでしょう。つまり致死率が低かったのです。もし高率に死亡するなら恐れは強くなりますが、感染者が死亡することにより流行は限局します。そして死者は「丁重に」弔われたでしょう。しかしそうではなかったのです。

 もうひとつは皮膚症状が必発であり、だれの目にも進行が明らかだったからです。これらは当然ながら起因菌の性質に由来しています。この菌は歴史的に長く人類の近くに存在していますから、多くの人はすでに免疫を持っている可能性も高く、また感染そのものも家族間ですら稀な程度だったのです。

皮膚症状が必発な訳は、この菌が体温よりも低い摂氏31度程度での増殖を好むからです。ですから人体の深部には入らず表層に生息するわけです。ちなみに細菌ではありませんが、男性の精巣も精子の分裂をくり返しますから、それによって熱が発生し精子が死滅しないようライ菌と同じような温度が適しています。ですから重要な臓器でありながらも、骨格に守られることなく皮膚一枚の中に鎮座しているのです。

 さてライ菌に戻りますと、基本的に高温になりにくい表層を好みますから、必然的に皮膚症状が主体になるわけです。ですからタタラ場の病者の言葉と整合性が出てきます。「わしの腐った肉を洗い」「布を巻いてくれた」というくだりです。私たちは食べもの対して日常的に「腐る」という言葉を使います。腐るとは、タンパク質の自己融解による変性も含みますが、基本的には細菌による分解の結果です。私たちは食材が新鮮なら生卵や刺身を食べます。「新鮮なうちに」というのは、言い方をかえますと「細菌よりも先に」という意味になるのです。

 ライ菌は人間の皮膚の、おもに糖質や脂質を分解代謝しながら表面を這うように増殖するわけです。その結果として「肉が腐る」のです。細菌による皮膚浸潤とその修復過程としての瘢痕化をくり返すうちに、見た目の体表は崩壊します。最終的には鼻や眼瞼は形態的に崩壊し、どのような美顔も失われてしまうわけです。さらに感染から相当の年月が経ちますと、皮下にはすぐ筋肉とそれを動かす神経がありますから、皮膚の神経を伝い神経筋接合部に細菌が入り、筋肉は部分麻痺を起こし関節は変形し動けなくなるのです。

 病者も家族のもとに帰りたかった

 ではかれらはなぜ迫害されたのか、それはやはり皮膚症状による醜状変形が強かったからでしょう。

たとえば現在でも、同じ形状のものが幾何学的に限りなく並ぶザクロの実やびっしりと詰まったヒマワリの種、それからニワトリの皮を見ると鳥肌が立つという人は少なからずいます。視覚が理由もなく嫌悪感を煽動するのでしょう。

 胃の中に潰瘍やビランができると症状はあるでしょうが、外見上は分かりませんから平凡な病人として過すことできます。しかしそれがもし顔に出来たらどうでしょう。現代なら皮膚科に飛んで行くでしょうが、昔なら祈祷や民間療法に頼るしかありませんでした。

 ライ菌が熱に弱いなら、熱めの湯治で治ったのではないか。そう考える人もいるでしょう。現在でも新型コロナウイルスは50度程度の熱で死滅するなら、それ以上の温度の風呂に入れば治るという誤った情報が流れていると聞きますが、生命体は人間の思考ほど単純ではないのです。

 こうした民間高温療法が奏功するなら、日常的に入浴を好む日本人は無精子症になりライ菌より先に絶滅していたはずです。この疾患の歴史的長さからしますと、つい今しがた抗生物質による治療法が確立したところで、それまではやはり不治の病だったのです。

 こうした事情から皮膚症状が進行しますと、他人からは避けられ、自分自身も抑うつ的になってしまいます。そして商家なら蔵に農家なら村はずれの小屋に隔離されたのでした。しかし家族にも差別の累が及ぶことから、山中に姿を隠すこともあったのでしょう。現在も日本薬局方に収載されている生薬に「山帰来(さんきらい)」というものがあります。中国南部に起源があるイバラ科つる性の植物です。その根は梅毒に効果があるとされますから、なんらかの抗生物質様の薬効があるのかもしれません。梅毒患者もバラ疹という特徴的な皮膚症状を示すことがありますから、疾患の鑑別ができなかった時代は、ハンセン氏病患者も病が治り「山から帰って来る」と伝えられるこの生薬に希望を託したことでしょう。

 また九州には有名な野仏群がいくつかあります。仏師によると思われる完成度が高いもののほか、岩を貫くような願いを込めて素人が彫ったと思われる素朴な像も数多くあります。そうした人たちの中には、やはり伝染性疾患を疑われ集落をだされた人たちもいたことでしょう。素朴な像が、何かを訴えかけて来る圧倒感に立ちすくむことがあります。

 経済的に恵まれていれば、こうして蔵や小屋あるいは家族から人知れず食料を補給してもらい山中に篭ることができます。

 

感染者の追放が感染を広げる

そうでなければ、流浪の旅に出るよりほかにはなかったのです。こうして「放浪ライ」という言葉が残るほど、典型的なパターンとして、物乞いをしながら流浪するよりほかなかったのです。

しかしどこに行って誰に助けを求めても「わしらの病を恐れ、人間としてあつかってくれた人はいなかった」のです。

 現在においても、伝染性疾患に罹りますと、治療法があるなしに関わらず、まずは患者の隔離です。しかしかつては収容場所を設けずに患者を隔絶していましたから、これは隔離ではなく迫害だったわけです。病者がどうなろうと感染したくないというエゴイズムは、残念ながら誰もが持つものです。そのために感染者を集落から出す。これも合理的だとしましょう。しかしそのことによって感染者は広域を当てもなく移動しますから、かえって感染を広げることになったのです。ひとり一人の行動はやむを得ないとしても、全体としての結果は明らかに過っている「合成の誤謬」を、人類は数千年にもわたりくり返してきたのです。 

「行くあてのないわしら」にとって、タタラ場が安住できる唯一の施設だったのです。しかも仕事がありますから、現代の障がい者作業所にあたります。社会活動に参加できる理想的な環境です。

 さてナゴの守の「呪い」を受けたアシタカも村を出される日が来ます。アシタカは一族の長になる人物であるにも関わらず、「掟に従い見送らぬぞ」とヒイ様に告げられました。掟の詳細は明らかにされていませんが、もしかしたら「呪い」すなわち伝染性の病を持った者の旅立ちを見送らないという掟なのかも知れません。一族の滅亡を防ぐために最後まで接触を避ける習慣が掟になったのでしょう。

 しかしこの禁を破った者がいました。アシタカの将来の妻として自他ともに認めている乙女・カヤです。エミシ一族で変わらぬ心の証とされる黒曜石の小刀をアシタカに渡し、無事を祈ったのでした。

 カヤの気持ちを汲み、それを静かに受け取ったアシタカはヤックルと言う名の大カモシカに跨り、村を後にしました。こうしてアシタカは、「呪い」の理由を解くために、ナゴの守が来た道を逆にたどる旅に出たのでした。