少子化の正体

「80・2.0の壁」とは?

日本史に絡み付いた「天然痘」

 

 当時の京では、災害や飢饉があるたびに疫病が蔓延しました。その代表的なものが天然痘です。この感染症は、人類史に大きな影響を与えてきました。日本も例外ではなかったのです。室町時代には痘瘡、平安期には疱瘡といわれていたようです。正体は、1980年にWHOによって根絶宣言が出されたウイルス性の感染症です。

 最後の感染者はソマリアの青年で、治癒しました。最後の死亡者はそれよりも数年前のイギリスの女性です。ウイルス研究所に勤務していたのです。レベル4といわれるもっとも厳重なゾーンで天然痘ウイルスは管理されていたのですが、漏洩したのです。

 ワクチンはすでに広く行きわたり、人的にも設備としても先端医療が駆使できる体勢にありながらも、一命を取り止めることができませんでした。治療の不確実がわかります。

 ましてや室町時代にはまだ「呪い」や「タタリ」が原因とされていました。したがって主な治療法は祈祷で、予防策は魔除だったのです。人々にこうも恐れられた理由の第一は、死亡率が高かったからでしょう。生活環境にもよると思われますが、感染者の約半数が死亡したといわれています。しかも特異的な皮膚病変を伴いますから、「呪い」の進行が誰の眼にも明確に見えるのです。

まず飛沫や接触で感染しますと、潜伏期をおいて発熱します。発熱は感染症の初期症状としてよくみられますから、特異的ではありません。やがて皮膚に豆粒大の丘疹が出てきます。当時はありふれた疫病でしたから、この丘疹をみれば「呪い」が取りついたことがわかったはずです。

やがて一時的に解熱傾向にはなりますが、つぎのステージでは丘疹が自壊して膿疱を形成します。死に至るのは、これと同じことが、気管支や腸でも起きるからです。血液が感染を起こしている敗血症それから多臓器不全に至ります。感染が全身に広がっていますから、完全に「取りつかれた」状態です。そして見た目には、呼吸困難や激しい下痢によって死亡するわけです。

生き残った人たちも、顔に痘痕(あばた)といわれた深い瘢痕を残します。眼窩周辺の膿疱が眼内に及ぶのか、片目あるいは両目ともに失明する人も珍しくなかったのです。感染者は終生免疫を獲得しますから、集団免疫が形成されるでしょうが、それも束の間です。なぜなら免疫を持たない人たちが生まれて来るからです。社会の中に常に小数の感染者がいて、免疫をもたない集団が一定割合になる数十年に一度は、大流行を起こすということがくり返されたわけです。

 

パンデミックの原因は都市の人口過密

この時代の京で蔓延した原因の一つは、今でいう「三密」のうちのまず密集です。つまり都市人口が多く、七口の関からの往来も頻繁だったからです。室町幕府が招いた疫病のみならず飢餓や内戦などの禍の大きな遠因は、幕府と朝廷それに治外法権の寺社を、京に一極集中させたことでしょう。当初は南北朝時代ですから、北朝を警固する必要があったことが大きく影響したのかも知れません。しかしそれにしても平安京の建設からすでに500年以上が経ち、人口も増加して、碁盤の目で区切られた洛中では都市機能として、すでに限界を超えていたはずです。さらにそこに鎌倉からの役人の転入も発生しましたので、なおさら過密になります。

 さらにそこに飢餓や天災が重なりました。たとえば長禄・寛正の飢饉(1459から1461年)です。こうした時世に願阿弥という洛中の民はもちろん将軍からも寄付金を得るほど信のある高僧が現れます。飢餓にあえぐ人々のために、舎屋を構え連日8千人分のアワ粥の炊き出しを続けました。しかし洛外からの流入もあり、ひと月で資金が尽きてしまいました。

飢饉は凶作を元にしていますから、その原因は決まって異常気象です。この時にもまずは全国的な干ばつで、次の年は逆の大雨水害でした。やはり数十年に一度の異常気象でしょう、京都を台風が覆い、賀茂川が氾濫したのでした。後はいつものように、飢餓と疫病です。この疫病あるいは流行病といわれるもののなかに天然痘も含まれていたでしょう。引き取リ手のない遺体は、四条・五条の橋の下にまとめて埋葬された事例もありますが、基本的に道端に放置されていました。鴨長明による「方丈記」に記された二年間続いた養和の飢饉の光景と同じです。

「道端に飢え死んだ者たちの数さえわからないくらいである。取り捨てる方法も知らないので、腐敗した死臭は世に満ち溢れ、死人の朽ちてゆく姿、そのありさま目もあてられないことばかり。まして賀茂の河原などには、馬や車の行き交う道さえないほど、遺体があふれている。」

 京の惨状が、方丈記の時代から300年にもわたり変わることなくくり返されていたのです。京の雅やかさなど砂漠の蜃気楼で、地方部からの食料の搬入が止まれば、たちまちこうなったのです。都市は食料を自給できない、いわば砂漠としての運命から逃れることはできません。

 

飢餓と流行病に戦で、「死のトライアングル」の完成

ここにさらに11年にもわたる応仁の乱が発生しました。両軍は洛中の東西にそれぞれ本陣を張りました。そこに東西両陣営の援軍が、洛外から流入して来たのです。ただでさえ足の踏み場もないほど人で溢れていた京に集結して、そこを戦場にしました。正式な武士軍だけでも、11年間で延べ10万人以上が参戦したといわれています。 

 当時の日本の人口は現在の10分の1程度でしたから、延べ10万人の兵は大規模です。これらの兵やその手下になる足軽・ならず者たちが、戦術として放火を繰り返しましたから、惨状が想像できるでしょう。

当時の建物はわずかな土壁を除けば、木材と紙でできていましたから、放火でたちまち焼失しました。平安京以前の原野に戻すには、ひと月もあれば十分だったでしょう。実際に平安期からの建物も史料もほんの一部を残して政治部門が集中していた上京はもとより、山の中の清水寺の本堂にいたるまですべて消えたのです。こうして燃えるものすべて焼き尽し、殺せるものはそうして価値がある物や売れそうな人間は掠奪されてしまいました。

 乱の原因は守護大名の主導権争いや将軍家の跡目相続が関係しているとはいえ、どうなれば終わるのかもわからず、無秩序が延々と続いたのでした。エミシの村をアシタカが出される時に、長老の1人がつぶやきます。「今や大和の王の力は衰え、将軍たちの牙は折れたと聞く。」

 そのとおりだったでしょう。幕府と朝廷は当事者意識を失っていたのか、写経や施餓鬼会の祈祷をしていたといいます。

 しかし終戦の転機が訪れます。東西両軍の雄であった細川勝元山名宗全が、流行病で相次いで亡くなったのです。二人が二月足らずの間に亡くなっていますから、この流行病とは天然痘であった可能性が高いでしょう。やがて山名側の西軍が京を去り、この乱は終焉を迎えました。

 ところで両陣の奥深いところにいたはずの2人がなぜ、ほぼ同時に天然痘に罹ったのでしょう。それは洛中での戦闘集団が相互に感染しあい、それが報告を受ける上級武士に移り、それぞれの大将に感染させたのでしょう。感染していても丘疹が出るまでは気が付きませんし、治癒したあとも一定期間は感染力があるといわれていますから、感染は広がりやすいのです。加えて戦闘行為は密集・密接を繰り返しますから、クラスターが発生しやすいわけです。

 こうして見ますと、取り止めのない乱を終わらせたのは、「天然痘」だということになります。天然痘は、もとを正しますと、大和朝廷の時代に新羅から日本に入って来たといわれています。その時の流行で、時の有力者である藤原兄弟が亡くなり、また時代は下り江戸時代には二名の天皇崩御しています。そのうちの1人が、明治天皇の父である孝明天皇で当時34歳でした。大政奉還の火中で、明治天皇はまだ元服前の14歳でしたから、天然痘はやはり日本の古代や中世史のみならず近代史すらも、大きく翻弄したのです。

 さてここでタタラ場の人々を思い返してみますと、男たちはゴツゴツとした個性的な顔をしていますが、女性たちはみな、今風のすっきりとした顔立ちです。天然痘に罹患しますと半数は死亡し、生き残った者は顔に痘痕を残しますから、女性たちは運よく天然痘には無縁でタタラ場にたどり着いたのでしょう。またタタラ場は人里から離れていますから、牛飼いたちが持ち込まない限り、ウイルスは届き難いのです。やはり「下界よりはずっとまし」だったのかも知れません。