少子化の正体

「80・2.0の壁」とは?

ペスト流行の温床は天災・飢餓そして戦争

 この章では、いわゆる黒死病すなわち中世のペストの流行をなぞることで、「もののけ姫」の時代から今日の「コロナの時代」までをひとつなぎにしてみたいと思います。ペストの流行によって突然に平穏な暮らしが壊されたという印象もあるでしょうが、けっして平穏な暮らしではなかったのです。またペストの流行がもたしたパニックやその後の社会に与えた影響などについては歴史的にすでに書き尽くされていますから、ここではなぜペストが流行し、どこに消えたのかに軸足をおいて記すことにします。

 まずはジコ坊の語録から振りかえってみましょう。さすが高僧にして有能な特殊工作員だけあって、世の中を見定めています。あれはアシタカと野宿した夜のささやかな食事時でした。アシタカが旅のわけを話すと、ジコ坊は独り言のようにこうつぶやきます。「この前来た時には、ここにもそれなりの村があったのだが、洪水か地すべりか、さぞたくさん死んだろうに、いくさ・いき倒れ病に飢え、人界は恨みをのんで死んだ亡者でひしめいている。」

 小さな村が消滅したのも、またインダス文明のモンエジョ・ダロや古代アテネ・スパルタ・ローマの興亡も、規模が異なるだけで基本的な要因は同じです。その要因は、ジコ坊がいう大雨・飢餓・病そして戦争です。とくに飢餓・病・戦争は、このうちの1つが起きればあとの2つを誘発するという相互関係にあります。いうなれば「死のトライアングル」あるいは、「弱り目にタタリ目」という諺どおりです。とはいえこれは人間がすることです。しかし自然災害はそうではありません。人間の力は及ばない上に、容易に作物の生産を減らします。日照りが続いても、雨が長引いても凶作から飢餓がはじまりますからタタリを実感します。あとは行き倒れ病や戦という流れです。応仁の乱でもその後の戦国時代でも大小さまざまな飢餓・病・戦が発生し、「それなりの村」が興亡しました。やはり人間の力が及ばない何かの力を恐れ神仏を頼り、反対に不吉なものを排斥したのです。こうしたことは日本に特有なことだったのか、それとも人類に普遍的な認識と行動なのか、ヨーロッパに話の舞台を移してみましょう。

 

それなりの村があったわけ

 滅んだ村には、もちろんその前に栄えた時代があったのです。当時は定住農耕で、しかも基本的に自耕自給でしたから、気候の影響を強く受けていました。

地球が温暖と寒冷をくり返していることはよく知られています。それには1万年単位の大波と数世紀の中波それに数十年単位の小波があるようです。南極や氷河の氷床をくり抜くと、まるで樹木の年輪のように気候変化の記録が残されているといいます。こうした気候学的な進歩によって割りだされたのが、中世温暖期(800年から1320年)です。

暑夏と暖冬のおかげで、小さな村落のごくわずかな土地や、以前よりも高地でも作物を育てることができるようになりました。アルプス地方ですら、氷河が後退して牧草地が広がったのです。こうしてそれまで開墾できなかった土地に新しい村々が出現しました。人々は神の恵みに感謝したでしょう。

温暖化は陸地のみならず海洋にも変化をもたらしました。冷たい海域を好むタラの群れが北に移動したからです。タラは、現在においても重要な水産資源ですが、慢性的な食糧不足の当時はなおさらだったでしょう。乾燥させたタラは、保存性に優れた高タンパク質の食品であり貴重なものでした。当時の船は木造で火を使えないために、大航海時代に至るまで船乗りたちの主要な食品でもありました。また野菜や果物が乏しい船の中では、乾燥とはいえ火を通していない生魚はビタミンの補給源だったでしょう。

 そのうえ陸地でも乾燥タラの需要は高かったようです。それは単に食料が不足していたことに加えて、宗教的な理由が重なっていたからです。キリスト教で肉を食べてはいけないとされる日でも、タラは肉とは見なされず許可されていたのです。

さて、いくら温暖化とはいえ、作物の生育する期間が短いスカンディナビアのフィヨルドの痩せた土地は、たちまち人口過剰になりました。バイキングあるいはノースマンとしても知られる古代スカンディナビア人は、必然的に落ちたら即死する北の海に乗り出しました。海に出た目的は先のタラ漁に加えて交易・略奪です。 

略奪は、いつの時代でも変わりません。漁や交易をするよりも、他人が捕獲した魚や交易品を奪えば良いと考える特殊な思考回路を持つ人たちが一定数存在しているということでしょう。「もののけ姫」で村やタタラ場を襲った地侍を山賊としますと、かれらは海賊です。

この時代の有名な海賊は、通称「赤髪のエイリーク」でしょう。海賊行為はやがてイングランドフランシス・ドレークが「略奪の免許」を時の女王エリザベス1世からもらい、出資を集めて南米の銀山を太平洋側から襲い、インド廻りで帰国しました。女王にも配当し、イギリスの財政的な基礎を作ったともいわれています。エイリークはこうした「ベンチャービジネス」の先駆けだったのです。

殺人の罪でスカンディナビアを追われた彼は、アイスランドでもまた殺人を犯しついに陸を追われ、10世紀末にグリーンランドを発見しました。羅針盤も海図もない時代に、太陽の方向とそれが作る影の長さ、それに親先祖から極秘に伝えられていた航海の技術が頼りでした。そこにはすでにイヌイットエスキモー)が定住していたのですが、例によって「発見」です。

氷の島をグリーンランド命名したのはユーモアなのか、それともアイスランドへの移住が〝氷の大地〟の名の印象から進まなかったことからのペテンかはわりません。しかし土地の権利が販売され、やがてエイリークから数世代経つとグリーンランドへ移住する人々が増えてきたのです。そして東部とそれより寒冷地にあたる西部にふたつの殖民地が形成されるに至りました。

エイリークの時代にはアイスランドすら、船乗りたちか純粋な信仰を求める宗教家など、特別な生活背景をもつ人たちのほかには一部の定住者しかいませんでした。ところが、それよりも緯度が高いグリーンランドにまで移住できるようになったのは、時代が中世温暖期にあたり、比較的に気候に恵まれていたからでした。

日本においては「やんごとなき方々」が平安絵巻を繰り広げ、京が雅だった時代でもありました。一方の山間には、いくつもの「それなりの村」が形成されたでしょう。それもやはり中世温暖化による繁栄だったのです。

 

頻発した天災と飢餓

1300年代に入ると、寒暖の波動は小氷河期ともいわれる寒冷期に入っていきます。そしてこの寒冷期は、1850年ごろまで継続したといいます。つまり5世紀間に渡り寒気が居座ったのです。

さて寒冷期はただ静かに冷えていったわけではないようです。急激な気象の変化が起きます。すなわち冷夏や大洪水が頻発したといいます。こうした洪水がどの程度のものだったのか。たとえばオランダ北部は海面下に沈みゾイデル海となりました。オランダの干拓事業は有名ですが、もともとは陸地であったところがほとんどであり、いわば大水害後の原状回復事業であっともいえます。

また北ヨーロッパのすべての氷河は、時おり土石流を伴いながら前進し、その下流の牧草地や村々を氷河で飲み込みましだ。

気候の変動に加えて、開墾による森林伐採の影響も洪水に拍車をかけたでしょう。いうなればシュメール文明の時代からの薪炭エネルギーを求めての森林伐採津波と、耕作地を求める開墾が西ヨーロッパで合流したのです。森林は両方からの圧力で伐採が続けられていたのですが、まだ目の前にありましたから、このまま尽きるという危機感は社会に共有されていなかったでしょう。

さて、ただでさえ日照時間も期間も短い西ヨーロッパの夏が、冷夏になって平地ですら作物は実りませんでした。ましてや高地ではもはや作物は芽も出さず、かわりに飢餓が芽生えたのです。すなわち中世温暖化から寒冷化に向かうにつれて、人々の暮らしも逆回転になっていったのでした

特にヨーロッパ最北端のグリーンランドは、極端な惨状でした。14世紀の中ごろ、ノルウェーの教会裁判所の一団が東部から西部植民地まで航海しました。西部植民地のある村には、教会がぽつんと建ち、野生化した牛や羊がわずかにいるだけで、だれもいませんでした。一団は近くに住むイヌイットの仕業だとしました。が、そうだとしますと、狩猟の民の彼らが家畜に手を付けないのは整合性に欠けます。ともかく裁判所の一団は、残された家畜を屠殺して食糧とし、船に積めるだけ詰め込んで航海を続けました。

そして別の荘園に着くと、壁で区切られているとはいえ、まだ家畜と同居していた時代の家には人も家畜もいませんでした。現代の考古学的な発掘が明らかにしたところでは、残っていたのは家畜やホッキョクノウサギライチョウそれに猟犬などの爪や解体された骨だけでした。埋葬してくれる人がいなかったはずの最後の一人の人骨も発見されていません。つまり彼らは、酪農家にとって必須の繁殖用乳牛を含め食糧となる全てを食べ尽し、そこを去ったはずですが、どのような最期をむかえたのかは分っていないのです。

 それから現代の考古学者に「砂の下の牧草地」として知られる内陸部の植民地があります。氷床の近くに位置していたため、寒冷化による氷河の前進とともに砂の下に埋もれたのです。つまり比較的に温暖で海が凍らない東部殖民地を除いて、グリーンランドへの移住者の子孫たちは壊滅しました。

極限の気象にすでに長い年月にわたり適応していた先住民のイヌイットは変わらず生存していましたが、入植者たちは本国での暮らしのまま酪農を持ち込んで、気候変化に翻弄されたのでしだ。

飢餓から戦争そしてペスト

飢饉になればありとあらゆる災いが続発します。感染症・強奪・無秩序などです。もはや貧しい人々はまともなものを食べることはできず、道端の草を食べたり、都市部に押し寄せては腐敗が進んだものまで口にしたりするようになりました。そしてやがて、親が子どもを食べた、あるいは飢えた囚人がほかの囚人を食べたといった人肉食の噂話が、記録はないとしても信憑性を持つようになったのです。フランドル地方(現ベルギー周辺)では、死亡者が増えて町には悪臭がただよい墓地が不足しました。ついには老若男女や富豪・貧民の区別なく、多数同時に埋葬しました。これはフランドル地方に特有であったわけではなく、ただ記録が残されていただけのことです。全ヨーロッパのみならず、日本の平安末期から応仁の乱までの京の惨状と同じです。

つまり定住農耕時代の歴史は、地名と人名が漢字からカタカナに変わるだけで、洋の東西で似たようなものだったのです。それは農業技術の進歩が極めて緩慢でしたから、生産性にたいした地域差がなかったからでしょう。

さて、飢饉の直接的な原因は寒冷化ですが、大きなもうひとつの要因は、温暖期に人口が増加していたからでした。つまり寒冷化による不作で食糧と人口の均衡が崩れたのです。まずは局所的な争いがはじまります。すなわち暴徒と化した集団は強奪や海賊行為に走り、単独で行動する者は夜に静かに墓を荒して副葬品を奪いました。 

ところで生存をかけた生活資源の奪い合いは動物でも同じです。チャールズ・ダーウィンは「種の起源」の中で次のように記しています。「生存競争は、同種間の争いが最も激しい。それは同じところに住み、同じものを欲しているからだ」。しかし動物は鋭い牙や爪を持っていても、相手を死に追いやるまでは攻めません。それをする生物種は人類だけなのです。

このあと100年戦争そして30年戦争と、戦いがなかった年を探すのが困難なくらいの戦争の時代が始まりました。争いの理由は王位継承・宗教対立などいろいろありました。しかしどの戦争においても、人口増加がとまらず食糧不足が続いていたフランスが常に渦中にいたのです。「同じところに住み同じものを欲しての激しい生存競争」だったでしょう。

さて「死のトライアングル」のうち飢餓・戦争とくれば、残る一角は病すなわち感染症です。パンデミックの下地は完全なまでに整っていました。感染爆発が起きるには、火薬庫の一本のマッチのように、ここにノミが一匹飛び込んで来るだけだったのです。