ペストは古代エジプトのミイラにも感染の痕跡があるといわれています。また今日ではみかけませんが漢字では、ヤマイダレに鼠と書くそうで、中国では古くから鼠由来の病気であることも知られていたようです。つまり人類史に記され続けてきたのです。エジプト文明も古代中国文明それにローマ文明も、すでに王侯たちの夢の痕として遺跡と記録がいくらか残るだけで、すでに歴史となりました。しかしペストは現在も生き続けています。
2004から2015年の12年間でのWHOへの報告例が56734名で、うち死亡者は4651名(8、4%)です。罹患者も死亡率も中世とは、文字通り隔世の感ではありますが、治療を受けてもやはり脅威的な致死率です。発生地はマダガスカル島を含むアフリカが多数を占めていますが、地球全体に点在しています。生きた化石とはそういう意味です。
さて人類史上で3回のパンデミックがあり、なかでも「黒死病」として恐れられた2回目の中世ヨーロッパでの流行が特に知られています。ただ19世紀末に北里柴三郎らによってペスト菌が発見される以前には、確定診断がありませんでしたから、ペストではなかったとする説もあります。たとえば教会の記録や遺言書などを基に、ウイルス性の出血熱だったとする説です。しかしここでは通説に従い、あれはペストだったという前提で話を進めることにします。
モンゴル軍の大移動が引き金になった
戦闘は密集・密接を繰り返すだけはなく、低栄養・不衛生も重なり感染拡大の培養器になります。第一回目の流行の東ローマ帝国も勢力を盛り返そうと戦いの連続でしたから培養器を作り上げています。また十字軍も3回ともに戦果はペストの持ち帰りでした。
そして中世ヨーロッパで歴史的なパンデミックとなった遠因は、モンゴルのユーラシア大陸支配だといわれています。ヨーロッパの北はポーランドから東はハンガリーを直接支配下におき、ロシア・ウクライナから中央アジア北部にかけてはキプチャック汗国を、中東から中央アジア南部にかけてはイル汗国をそれぞれ建国して支配し版図を拡大しました。つまりヨーロッパはモンゴル帝国に囲まれていたのです。
こうした戦闘行為が直接の原因になったのか、あるいはその後の東西交易によるのか、中国で流行していたペストが地中海を渡りシシリア島を経由してベネチアに上陸しました。毛布に付いていたノミもしくは荷物の陰に潜んでいたクマネズミが保菌していたとされます。
ペスト菌はなぜ陸上から侵入しなかったのか
さてここで疑問が2つ出てきます。まずひとつは、ペスト菌はなぜ、ポーランドやハンガリーから陸路で西ヨーロッパに伝播しなかったのかということです。ノミもネズミも、地中海を渡る舟に忍びこむよりも、陸路のほうが簡単で大量に移動できたはずです。
ひとつにはヨーロッパの北東部は比較的に最後まで森林が保たれた地帯で人の往来が乏しかったからでしょう。しかしペスト菌からすればヒトは感染経路から離れた袋小路でした。
そもそもペスト菌とノミが共生関係です。ペスト菌は主にノミの消化管で繁殖します。ノミの前胃といわれる食道と胃の間の膨らみに吸血した血液が入ってきますと、ペスト菌は自らの酵素でこれを凝固させます。そしてその中で繁殖するのです。最適な温度は哺乳類よりも10度ほど低い25度前後です。
ほかのノミに繁殖を広げるには、いったん哺乳類に移り他のノミ固体に吸血してもらうしかありません。吸い出してもらうには、ノミが吸血しやすい環境を作るのが一番ですから、皮膚を化膿させたり皮下出血を起こしたりするのでしょう。「黒死病」の黒の正体は皮下出血です。ペスト菌は血液凝固系酵素を持っていますから、いったん凝固を促進させて宿主の凝固系酵素や補酵素を枯渇させて、血液を凝固させる力を奪います。すると宿主は必然的に全身性の微出血を起こすのです。
そうしますと、ノミは吸血しやすくなりますからまた別の個体に広がることができるわけです。
ときにペスト菌が作った血液の凝固塊が、ノミの前胃を閉塞させることがあるそうです。そうしますとノミは空腹が満たされませんから、狂ったように吸血しようとします。ところが消化管の通過障害ですから、食道が満杯になりますと、その圧でノミ体内のペスト菌を動物内に吹き込むことになります。このようにしてペスト菌はさらに繁殖するわけです。
こうしてみますとペスト菌は無限に増殖しそうですが、現実はそうではありませんから、生態系の何かのシステムで持続可能な繁殖の範囲に抑えられているのでしょう。ペスト菌は現在も世界各地の山中にいるはずですが、比較的に「おとなしい」のは、本来の宿主間を循環しているからでしょう。
反対に人間集団に感染が広がりますと、ペスト菌側からしますと環境温度が10度も高い袋小路ですから、そこから吸い出してもらおうという機能が働くでしょう。その機能が最大限の凝固酵素や毒素を放出して、全身性の皮下出血を起こし黒死病となったのではないでしょうか。
ともかくもペスト菌とノミが共生関係であり、現在ではネズミのみならず、リス・ウサギ・プレリードッグなど、多様な動物やペットからもペスト菌が分離されていますから、ペスト菌にとっては、吸血性の節足類であるノミが重要で、それから供給される血液の種類にはさほどのこだわりはないようです。
つまり哺乳類に寄生するノミにさえ入り込めれば、クマネズミは乗り捨ててよかったのです。こうして森林内で増殖し、たまたま近くに寄って来た人に、ノミが飛びつけは、地中海ルートに対して北東ルートが構成されていたはずでずが、そうではありませんでした。
では陸路で西ヨーロッパに入らなかったのはなぜか、それはペスト菌が森林の生態系に取り込まれたからでしょう。反対に森林が乏しく安定した生態系がなかったイタリアでは、荒れ狂ったということになります。
そのほか、北東からの陸路は寒冷で増殖に不適だったのでは、という疑いもあります。しかしその可能性は低いでしょう。なぜならペスト菌はもともとヒマラヤ山脈北側からの発祥であり、寒冷な条件での増殖を好むからです。それにイタリアから始まったパンデミックは最終的にスカンジナビア半島にまで北上しています。しかしポーランドのワルシャワとチェコのプラハを結ぶ線を直径とする円形の森林エリアでは、これら2つの大都市を除けばほとんど感染が見られませんでした。
モンゴル軍はなぜ感染しなかったのか
つぎの疑問は、コンスタンティノーブルまでペスト菌を運んだはずのモンゴル軍あるいは商人のキャラバン隊は、なぜ感染しなかったのかということです。彼らは小集団でテントを張って夜を過したはずですから、感染が広がりやすい生活環境です。感染者が1人いると何日かするうちに壊滅的になるはずですが、なぜそうならなかったのでしょうか。
ひとつの考え方として、そもそもペスト菌が東方から運ばれて来たというのが間違いで、東ローマ時代の菌が再燃したのではないかというのがあるでしょう。。
ペスト菌は、全ゲノム配列の解析から,約6,000年前に仮性結核菌 から進化した菌であることが判明していますから、たしかに系統としてはひとつだけです。ただゲノム内では他の細菌やウイルス遺伝子との組換えが頻繁に繰り返された多数の痕跡があるといわれています・つまり水平伝播の影響を受けて変異した亜種が3種あるといわれています。古代・中世・近代と歴史的なパンデミックがありますが、それぞれ異なっているのです
さてモンゴル軍やキャラバン隊が難を逃れた理由は何か、それは「石炭」でしょう。マルコポーロは「東方見聞録」で、フビライハンの時代にあたる1280年ごろの元朝の様子を次のように書いています。「全土の山中には一種の黒い石が鉱床をなして存在し、これを掘りとって薪のように使う。夜、火の中にくべると朝まで赤い。」黒い石は石炭でしょう。シルクロードの最低気温は夏でも、テントの中で毛布一枚だけで寝るには寒いですから、季節によって火の加減こそすれ石炭を燃やしたのでしょう。
そうしますと狭いテントの中に黒い煙と嫌な匂いが発生します。この「嫌な匂い」の主成分は亜硫酸ガスです。『もののけ姫』で、唐傘連が尾根の上で発生させていた煙と同じ成分です。
亜硫酸ガスには、殺菌・殺虫効果があります。水に溶けますから、現在でも殺菌剤・殺虫剤として多様に使用されています。もちろん人体にも害を及ぼすのですが、やはり薬効と毒性はその物質の濃度次第です。匂いを感じる空気中の濃度がおおよそ0.5PPMとされていますから、それ以下に濃度を下げれば、殺菌・殺虫効果からの利益が大きくなります。
濃度の測定器がなくても、発生源が屋内にあり、かつ匂いが鼻につくあるいは煙が目にしみるようになったら、たいてい換気するでしょう。
こうしてテントの中のノミは駆除されるわけです。しかも石炭はほぼ毎日くり返し燃やされますから、テントの内部にも衣服にも二酸化硫黄が染み付くでしょう。こうなりますとノミは、もう折りたたまれた毛布の中から出ることができません。ところが吸血しなくてもノミは1ヶ月くらいは生存できるようですので、地中海で解放されるのを待つことができたのでしょう。
以上が実証されたわけではありませんが、モンゴル軍やキャラバン隊が感染しなかった合理的な理由だと考えられます。