少子化の正体

「80・2.0の壁」とは?

石炭による消毒効果

 中世の黒死病の流行のピークは14世紀半ばから後半にかけての半世紀ですが、流行そのものは5世紀間も続きました。流行が14世紀末に一応のピークになった理由は、大量に死亡したからでしょう。少なくてもヨーロッパ人口の1/3の犠牲者を出し、消滅した村がいくつも発生するほどでしたから、人間同士の接触頻度が落ちて今でいう実効再生産数が減少したのです。しかし人口はすぐに回復しますし、人々が生きていくための社会活動は止まりませんでしたから、実効再生産数はまた増加してしまい、自然に消滅することはありませんでした。

黒死病は、14世紀以降も大小の流行を繰り返し、19世紀半ばまで居座りました。この期間は中世温暖期の後の寒冷期いわゆる小氷河期と、ぴったり一致しています。その一方で19世紀半ばは、産業革命が完成した時期でもありました。気候の変動とりわけ寒冷化は低温での増殖を好むペストの流行に大きな影響を与えているでしょう。しかし気象変化とペストの流行を時系列に沿って検証するのは困難ですから、ここでは産業革命に焦点を合わせることにします

さて、ではなぜ産業革命ととも消えたのでしょうか。これは偶然の一致だったでしょうか。またどこに消えたのでしょうか。答えは偶然の一致ではなく、産業革命によってロンドンの霧の中に吸い込まれて消えたと思われます。その霧の正体は、「石炭の煙」で、後にスモッグといわれるようになりました。

現在は新型コロナウイルス感染の拡大防止策として、クラスターが発生した施設のみならず、地下鉄の車両内にも消毒が施されています。黒死病が蔓延したヨーロッパにも、ワクチンや治療薬はありませんでしたから、広大な面積を消毒し実効再生産数を1未満に落とすしか、この感染症を収束させる方法はなかったのです。 

いうなればヨーロッパ全土を消毒してノミを駆除するという偉業を5世紀間もかけて達成したのです。もちろんそのことを意識した指導者もいなければ、社会目標として共有されたわけでもありませんでした。そういう意味では偶然です。

ならば、その消毒薬は何か、2つ考えられます。まずひとつは、石炭の燃焼による亜硫酸ガスです。それからもうひとつが、フェノール(石炭酸)です。なぜそう言い切れるのかと言いますと、当時は現在とは異なり人々が意識せずに汎用する防腐剤はありませんでしたから、ヨーロッパ全土に広がった殺虫・殺菌性がある共通の物質は、これら以外に存在しなかったからです。ここで薪炭から石炭へのエネルギー革命の中心になったイギリスを舞台に話を進めてみたいと思います。また5世紀間を「黒死病の時代」として、細かい前後関係や時間軸には、あまりこだわらないようにします。

 

イギリスで石炭が使われ出した理由

 イギリスの森林は落葉樹林帯ですが、寒冷地ですから生育が遅いのです。また年中湿潤で低地には沼が多く、山地は岩石性で樹木はもともと少なかったのでした。こうした気候や地形を反映してイギリスの森林面積は10世紀ごろでも国土の3割程度で、再生された現在でも1割程度です。

 イギリスでは森林は希少だったのですが、中世温暖期には農耕地や牧羊のための開墾がさかんで、森林は伐採して無償でも運び去ってほしい障壁でした。木炭はすでに製鉄や家庭燃料に使われていたのですが、ほんのひととき薪炭エネルギーが供給過剰になったのです。 

しかし13世紀になると森林は枯渇し始め、製鉄所は豊かな森と水流を求めて移動し、やがてそこを荒野にする。そうしたことをくり返していました。『もののけ姫』では、森を失くしたタタラ場はそこに残ることになりましたが、イギリスのタタラ場は新たな森を求めて移動したのです。そしてまた禿山をひとつ増やしたのでした。ちょうどバッタの大群が草原を求めてはそこを喰いつくし、移動するようなものでした。

こうしてもともと少なく生育も遅い森林は底をつき、やがて木材をノルウェースウェーデン南部などの北欧から輸入するようになりました。すでにこのころから農場労働者は輸入品である高価な木炭を手に入れることはできず、石炭を自らの手で掘って家庭用燃料にしていました。

石炭が燃える石で、燃料として使えることは古代から広く知られていましたが、黒鉛と匂いがあることに加えて、燃え出したら止まらない。つまり火の加減が煩雑ですから、あまり見向きされていなかったのです。もっとも森林が目の前にある限り、このやっかいな黒い石を手に取る必要はなかったのです。

しかしついに薪炭枯渇に追い込まれてみますと、生活場の周辺は石炭の埋蔵量が豊富ですから、黒く露出している部分を露天掘りする程度で、自家用の燃料は賄えたのでした。貧困層は石炭を使い、富裕層は輸入材や木炭を使う、こうした状況が数世紀も続きました。

ただ黒死病に感染した家族がいる場合は家の換気が重要であることは、徐々に知られるようになりましたから、窓を開放しても石炭を手に入れることで冬でも寒さは凌げて、しかも亜硫酸ガスでノミは減ったはずです。

市中を焼き尽くした16世紀のロンドンの大火災の再建にはレンガが多用されましたが、内装など部分的にはやはり輸入木材が使われました。当時の富裕層は、おカネさえあれば木材は海外から運ばれ続けると思っていたでしょう。

 しかしそうではなかたのです。ピレネーアルプス山脈からスカンディナビア半島にいたるまでのヨーロッパ大陸全体で、森林エネルギーは枯渇しました。その度合いがもっとも大きかったのが、森林が少ない島国で、かつ木炭を大量に使う鉄鋼の生産高がヨーロッパで最も多かったイギリスだったのです。こうして森林エネルギーの枯渇は加速し、それに反比例するように木炭の価格は上昇しました。そしてついに上流階級も、家庭用の燃料として石炭を使わざるを得なくなったのです。こうして1530年のイギリスの石炭使用量は年間20万トンでしたが、1世紀あまりのちの1640年には150万トンに増加しました。この石炭使用量の増加に比例して亜硫酸ガスの排出も増えたはずです。

薬としての石炭に気づき始めた医者たち

自然科学において300年という年月は圧倒的な有利性を後に生まれた者に与えます。中世パンデミックの初期には、黒死病は何かのタタリだと考えられていたのでしょう。ある者は神にすがり、一部の者たちは苦行に没頭し、またある者たちは異民族に責任を押し付けて迫害しました。

そうした当初のパンデミックから3世紀後の17世紀にも流行がありましたが、前世紀末には顕微鏡が発明されていますから、17世紀の流行時には何か目に見えない病原体が原因ではないかという考えが広まったのでしょう。その根拠は当時の医者たちが付けたあの独特な「鳥マスク」です。鳥の面で顔を隠し、長いマントを着て皮革の手袋を付けています。これらはゴーグル・マスク・ガウン・手袋にあたりますから、使い捨てではありませんが、今日の感染防御服の原型です。

この衣装はフランスから広まったといわれ、鳥の嘴部分には香料が詰められていました。単なる芳香剤としてだけではなく、病原体に対するフィルター効果を期待していたのかも知れません。

当時はまだ予防と治療の区別はありませんでしたから、石炭に何らかの「治す作用」があることに気が付いた医者たちがいました。気づきは注意深い観察から生まれますから、普段自分たちが診ている王侯や金持ちたちよりも、民衆の方がむしろ元気にしている。民衆はすでに黒くすすけた狭い部屋で、鼻も黒くなるほど石炭を燃やして生活している、といった認識を得たのでしょう。

こうして石炭から分離される硫黄やピッチ(タール)と言われる成分を処方することもありました。医学会はまだありませんでしたが、医者同士の論争は活発だったようです。こんな感じでした。飲むのではなく煙が良いのだ、それも石炭の煙でなければいけない。いや石炭はだめだ。木材の焚き火がいい、それもモミやスギといった臭気の強いものでなければいけない。どちらも間違っている。なんであれ煙は良くない、内服が一番なのだ。

このような試行錯誤による医薬や、石炭の使用による暖房効果や亜硫酸ガス、が、黒死病を歴史の隅に少しずつ押し込め初めていたのです。

 

馬が激増した

石炭による暖房から発生する程度の亜硫酸ガスでノミの駆除ができれば良かったのですが、そうではありませんでした。市中は不衛生になったのです。

石炭の消費が増えるにしたがって炭鉱は事業として成り立つようになりました。採掘した石炭はトロッコで坑外へ運び出しだのですが、やがて坑内に木製レールによる軌道が敷かれるようになりました。動力は初め人力のちに重量が増えると馬の力でした。陸上に上げた後は、馬の背にのせて運んでいたのです。炭鉱は主にイギリス北東部にあり、そこからロンドンを初めとする消費地の近隣の港までは船が利用されていました。海から上がって来るので木炭に対して「海炭」とよばれることもあったのです。

つまり炭鉱から港まで、また港から消費地までのそれぞれ残り数マイルをどうするかが課題だったのです。室町時代の京への荷物の運搬と同じ事情です。最初に使われたのはやはり馬の力でした。

古代ローマでは、軍用の馬車の通行に石畳の道路を整備しましましたが、イギリスでは運河をひいたのです。運河を馬が泳いだわけではなく側道を歩きロープで船を引く仕組みです。

 これも日本の京で見られました。現在も部分的に残っていますが、伏見から京まで荷物を運ぶために高瀬川という運河を掘削したのです。川底は浅いため、底が平らな小船を浮かべて、側道を人の力で引いたわけです。この小船が高瀬舟です。

 馬の動力エネルギーは輸送だけではなく、交通手段も支えました。工業化が始まった18世紀には、ブルジョア層は自家用馬車を持っていましたし、プロレタリー層のためには乗合い馬車がありました。しかしいずれにしても、道路は整備されておらず、空気タイヤもスプリングもない馬車で、荒野を走る振動を人間の脊椎で吸収するシステムでした。

こうして18世紀後半のイギリスには、135万頭の馬がいました。1頭の馬を養うのに必要な牧草地の面積が6エーカーで東京ドームのグラウンド部分の2倍弱ですから、同じ計算でこの数の馬を養うとなりますと、九州の面積に近い牧草地を要します。ところがイギリスにそれだけの土地の余裕はありませんでしたから、飼料となるオート麦や牧草を主にアイルランドから輸入しました。

ところで馬も食べた分は排泄します。しかも草食性で重量がある分だけ、イヌ・ネコとは比較にならない糞便の量です。1頭だけでも、排尿すれば地表に流れができ、便は小山になるほどです。数万頭がロンドン市内で用を足したわけですから、流れも山もそこかしこに出現したでしょう。

さてペストを制圧するには、媒介していたノミを駆除すべきだったのですが、馬が溢れたロンドンは糞便だけではなく、馬小屋も増えそこに干草が積み上げられますから、むしろノミの天国だったでしょう。

また馬の皮膚は硬いですから、ケオビスノミも刺せなかったとしても、毛で覆われた大きな体は次の人に乗り移る隠れ場所を与えます。こうしたロンドン史上最高数の馬の影響が、亜硫酸ガスの滅菌・殺虫効果を上回ったのでしょう。事実として、ペスト菌はまだ消滅していませんでした。