多幸感の絶頂だった大阪万国博覧会「EXPO’70」
経済高度成長を促したのも、戦後復興経済と同じく、官民一体型の統制経済でした。まずは金融です。戦後の傾斜生産方式に名を借りるならば、傾斜金融方式ともいえる財政投融資です。
まず郵便預金で家計の余剰金を集めます。金利の変更はありましたが、昭和世代なら記憶にあると思いますが、高金利でした。10年定期・金利7%で複利ですと、満期で税込みなら2倍です。「10年で倍になる」。これが庶民の預金感覚だったでしょう。郵便局は融資はしませんでしたから、ここら資金を借りて融資する政府系あるいは民間銀行はさらに金利を上乗せしないと、採算は合わないはずですが、それよりも低い金利で融資したのです。この不採算を可能にしたのは、損失分と「適正な利益」分を、当時の大蔵省が補填したからです。損失を補助金で埋め合わせる「傾斜方式」と言えるでしょう。
事業としては、石油を原料とするいくつもの化学工業メーカーが有機的に結ばれた複合施設、いわゆる石油化学コンビナートの建設が隆盛をきわめました。これらの建設資材をまかなうための製鉄所の建設もブームになるなど、設備投資の資金を財政投融資が支えたのでした。
民衆は、物価の上昇はあったものの、それ以上に所得は増え、ボーナスや節約した分は郵便局に預けておけば良かったのです。地価の高騰で都市部での戸建ての購入は限られていましたが、分譲マンションが供給されるようになり、人並の「我が家」も手に入れました。団塊の世代も成人し、婚姻数も増加傾向になり、また子どもは2人までと決めていたけど、「なんとかなるだろう」と3人目を産む人たちも増えたのでしょう。それがこのころの出生率の上昇として跡形を残しています。
家族でお金を使ったレジャーも楽しめるようになり、多幸感の中で開催されたビッグ・イベントが、大阪万国博覧会「EXPO ’70」でした。パビリオン(展示場)の中にいるよりも、外で並んで待っている時間の方が、圧倒的に長いという大盛況というよりも混雑ぶりだったのです。
こうした繁栄の中の多幸感は、ニクソン・ショックで揺さぶられ、オイルショックで瓦解することになります。もっともドルの金兌換停止はもとより、第4次中東戦争もこのころから周到に準備されていたとしても、日本の民衆がそのことを知るよしもありません。
しかし、多幸感の終焉はすでに顕在化し、多くの人々が声高にその危機と改善を訴えていました。公害の多発です。石油コンビナートによって、白砂青松の景観が失われたのは、カネと替えたのだとしてあきらめたとしても、河川の汚濁はすすみ、地下水のくみ上げ過ぎから「地盤沈下」も日常語になってしまいました。
そしてついに人体まで蝕み始めたのです。特に悪名が高いのは有機水銀による神経障害・大気汚染による呼吸器障害・カドミウムによる腎臓・骨障害などです。こうした公害によるもので特に行政による不作為と風評によって二次的にも追い打ちをかけたのが「イタイイタイ病」ではないでしょうか。原因は一定の水域に発生したカドミウム中毒ですが、患者が不特定の部位を「痛い痛い」と訴えるから、人の不幸をあざけるかのように「イタイイタイ病」と片付けられたわけです。また、たとえば「江戸患い」のように発生した地域名を冠して、あたかも風土病のように見せかけたりしました。市民団体が「カドミウム中毒」と訴えても、行政側は「原因は特定できない」のオーム返しです。なぜ特定できなかったかといいますと、調査しなかったからです。
さて、公害は特定の地域で生活する人々の不幸でしたが、日本中どこに居ても逃れようがない逆回転が始まりました。第一次オイルショックです。原因は73年10月に勃発した第4次中東戦争ですが、原油価格の上昇が世界経済に影響を与えた出したのは翌74年からでした。戦後長らく1バレル(ドラム缶一杯分)が2ドル程度で推移していた価格が、段階的に4倍に高騰したのです。
物価はいっきに23%上昇し、「狂乱物価」という見出しが新聞・雑誌で目に付くようになりました。万博のときに「月の石」を見ようと並んだ行列は、そのままトイレットペーパーの前に移動していたのです。実際のところ、お祭りのなんちゃって「月の石」よりも、トイレットペーパーの方が日常生活には必須なのです。
おりしも列島改造論による地値高騰も起きていました。
物価上昇と地価高騰ですから、当時の日本銀行は公定歩合の引き上げをして総需要の抑制に出ました。物価高騰と不況が同時に起きるスタグフレーションといわれる戦後初の経済パニックです。
さて団塊の世代は、20才代前半になり、当時としては結婚適齢期と言われる年令ですが、「それどころではない」という不安に陥るでしょう。またすでに子ども2人の中堅組は会社の存続に不安を覚えたでしょう。出生数は減少に転ずるのです。
経済の高度成長と相関して増加した出生数は、オイルショックが契機となった大不況への転落とともに、減少に転じて今日に至っています。出生数の増加・減少は、すくなくともマクロ経済の好不況と同じ時系列にのっているということになります。またその因果関係も複雑ではないのです。つまり、第二次ベビーブームの背景は経済高度成長であったと言えるでしょう。