少子化の正体

「80・2.0の壁」とは?

ユースバルジ(youth bulge)

食い扶持のない青年集団

 ユースバルジとは、人口ピラミッドの底辺部にあたる青年層の〝膨らみ〟のことです。人口成長期にみられるこうした青年層の増加は、繁栄と動乱の一因となる二面性があります。まず繁栄に寄与する理由は、「人口ボーナス」とも言われ、安い労働力を大量に供給するからです。その上に健康ですから、現代的な医療や福祉といった行政サービスも、ほとんど必要とせず、むしろそうした社会保障制度を支える土台になります。かつての日本の高度経済成長期にも見られた人口構成です。

 しかしその一方で、社会不穏や極端な場合には動乱の要因になります。なぜなら「環境収容力は生物の繁殖力よりも、常に小さい」からです。人間社会ですと、人口の増加に合わせて、マクロ経済を拡大させることはできないからです。すなわち親世代と同じ待遇で、果たすべき役割を与えることができないのです。どの時代においても、すべての子が親からの家督を継げたわけではありませんでしたが、ユースバルジが発生しますと、こうした「食い扶持も居場所もない青年層」が一定の人口規模で発生します。

 こうして蓄積された負のエネルギーに、見えない陰から火の粉が投げ込まれて、風を煽り入れますと、エネルギーが消費尽くされるまで鎮火しません。具体的には、戦争や動乱による大量殺戮や移民政策によって、バルジ(膨らみ)が虚脱するまで、社会不穏は終息しないのです。

 歴史的に、地球上のほんどの地域で、産業革命期と人口爆発ともいえるユースバルジの出現は重なっています。こうして発生した膨らみ過ぎて破裂寸前のユースバルジに、かつてのフランスとイギリスはどう対処したのでしょうか。またその後を追った日本は、どうだったのか俯瞰してみましょう。

 

フランスは、動乱と軍事遠征で人口増加圧力を軽減した。

 革命時代のフランスは、いわば国外に向けてユースバルジのガス抜きをしました。すなわち徴兵制によって、若年層のフランス人男性を国外へ連れ出したのです。そのことで人口の急激な増加がもたらす社会的な軋轢を緩和したのでした。もちろんだれもそれを意識して徴兵制を推進したわけではありませんでした。最終的に遠征軍の先頭に立ったのは周知のナポレオン・ボナパルドです。都市部は落ち着きを取り戻しましたが、それは人口圧力が低下したからなのですが、あたかもナポレオンの戦果によるものとの誤解が、ナポレオンへの崇拝を醸しだしました。

まず、そこに至るまでのフランスの世情を簡単に振り返ってみましょう。フランス革命の理念として有名なのは、人類にとって普遍的な理想である自由・平等・博愛です。しかし暴徒と化した当時の民衆が求めていたのは「パン」だったのです。時代は第一次世界大戦期に下りますが、ウラジミール・レーニンがドイツ軍の企てで亡命先のスイスからロシアに戻り革命の先頭に立った時も、民衆の叫び声は「われらにパンを!」でした。民衆にとっての自由・平等とは、いつでも自由に平等な価格で「パンを手に入れる」ことを意味していました。

 人口増加による食糧不足が、政治革命の原動力になっています。が、フランスの食糧不足は、それまで一世紀間以上に渡ってくり返されていました。飢饉によるパン騒動や打ちこわしは、支配層の貴族たちからすれば{いつものこと}だったのです。それが政治的な暴動に向かうことはありませんでした。 いつもの「パン騒動」「財政赤字」「インフレーション」が重なっていますが、ここにいつもとは違う状態がありました。ルイ14世の時代からすると30%も人口が増加していたのです。経済はいつものことのくり返して拡大しないなかでの人口増加です。

 フランス革命前夜の時代になっても、フランスの人口のうち8割近くが農民でした。しかも自作農はその内の2割足らずで残りの8割以上は遠方に住む貴族など不在地主の土地を借りて自耕自給していたのです。さらには地代や租税の取りたて、さらに複雑な相続法により土地は細切れになり耕す土地がない流浪の民が増加しました。すでに工業化が始まり、人口は増加しはじめていましたが、織物工場が労働者を求めている一方で、農業の生産性は上がらず、飢餓が蔓延しましたが、それでもフランス人はジャガイモには目もくれず、パンにこだわり続けていたのでした。住むべき共有地もない民衆は、森林や沼地に住み、臨時雇いがあればそれに就き、なければ収穫期に作物のある農家に行っては物乞いをしたのです。そして。彼らの足は自然に都市部、特にパリに向かいました。

 18世紀末には、冷夏による作物不足に加えて、都市にはインフレーションが猛威を振るい、パンは、もはや臨時労働では手が届かない価格になっていました。それどころか臨時雇いそのものも、ほとんどなかったのです。なぜならイギリスからの安価な綿織物が大量に流入し、価格は3分の1以下に下落し、フランスの織物工場も大量の失業者を排出していたからです。この状態が持続すれば確実に餓死に向かいます。生き延びる短絡的な方法は「泥棒」でした。やがて当然の流れとして、奪おうとする側と防御する側の暴力性向がエスカレートします。

 そして1787に史上有名な当時の武器庫だったバスティーユ牢獄襲撃事件が発生して、国民大量死の火蓋が切って落とされました。当時パリ市内には国王軍として約7千人の国民衛兵が駐屯していましたが、彼らは民衆に発砲はせず、また国王に対する反乱も起こさず、暴動を放置しました。すなわちサポタージュです。

 かれら一般兵士は、貴族である将校とは別にパリ市内に住み、かつ正規の政府ルートからの食糧や生活物資も乏しかったため、不足分は非番の時に臨時雇いに出るなどして補っていました。こうしてパリ市民と心情的に同化していたわけです。バスティーユ牢獄を砲撃した大砲や銃も、パンを買えない民衆が入手することはできませんから、軍から掠奪するに任せた結果だったのでしょう。

 やがて動乱はフランス全土に飛び火し、7年間での死亡者は60万人に及びました。フランス革命といえば、ギロチン刑が有名ですが、処刑数は全死亡者数からすれば、誤差の範囲だったのです。しかしこれは国民大量死のほんの始まりでした。その後に国民総動員令が布かれました。革命を達成するためにというスローガンでの徴兵制です。独身男性は戦闘部隊へ、既婚者は武器の製造と運搬・女性は衣服の縫製・子どもたちは古布から包帯の原料となるリネン類の再生・老人は勇気を鼓舞することと役割が決められました。

 やがて経済も統制されました。革命の理念から離れているような印象ですが、若者たちは進んで入隊したのです。パンを求めて彷徨うよりも、よほど良かったのでしょう。フランス陸軍は65万人になりました。ルイ14世の時代の兵員は30万人でしたから、人口は3割の増加であったのに対して、兵員は倍増しています。そして若者たちはナポレオンに率いられてフランスから遠征に出ます。大義名分は他の国々の「解放」です。

 遠征軍は人口比からして国内財政では維持できませんから、武器弾薬以外は現地調達すなわち略奪でした。こうしてフランス国内は人口と食糧の不均衡が改善しました。国内に残された人々も軍需産業に就き、物価も再び混乱は生じますが、ひとまず安定化したのです。

 革命軍は食糧や馬草などを現地で略奪しましたから、身軽で機動性に優れていたといわれます。向かったベルギー・ライン河流域のラインラント・ドイツ西部・イタリア北部を次々に征服しました。これらの地域はフランスと同じように人口増加に苦しみ行き場のない若者たちがあふれていましたから、こうした食い扶持のない若者たちを兵として連れ出してくれる「解放」を受け入れたのです。しかし、やがてはこうした国々が肥大する一方の「フランス語を話せないフランス軍」を養うことになりました。

 そしてロシアで大敗し、スペインで壊滅してナポレオンの時代は終わるわけですが、彼の統治時代の初期はフランのユースバルジを軽減することになり救世主になりました。そして最終的には、自らの軍隊が肥大し、略奪戦争では養えなくなって破綻したのでした。

 こうしてナポレオンの時代は終わったのですが、フランス革命からナポレオン戦争までのヨーロッパ全体での死亡者は490万人に達しました。当時の西ヨーロッパの人口は1億人程度ですから、死亡者比率は4%を超えています。こうした大量死亡によって、ユースバルジは萎み、西ヨーロッパにも束の間の虚脱した平和が訪れました。

イギリスは、富国強兵策で、環境許容度を上げた

フランス革命期を含む、1791年に1450万人だったイギリス連合王国の人口は、1811年には1810万へとさらに増加したのですが、完全雇用が達成されました。

直接的に人口増加に対処するする意図があったのかどうかは、分かりませんが、結果的にイギリスが採用した政策は、「経済を拡大させる」「配分率を増加させる」それから「移民」でした。

具体的に振り返ってみましょう。周知のとおり、日本人がいう「イギリス」は、大ブリテイン島のイングランドウェールズスコットランドの3つの王国と、植民地であったアイルランドで構成されていました。アイルランドはさらにプロテスタントが多い北部とカトリックの南部に分かれています。

 当時のイギリスはエネルギー革命だけではなく、蒸気機関による動力革命の完成期にありましたが、工業化が進んでいたのは、大ブリテイン島だけでした。スコットランドは高地が多く工場の立地には向いていませんでしたから、職がなく、軍隊に入る者が多かったのです。北アイルランドでは新大陸への移民で、人口増加圧力を緩和する流れでした。すなわち先に大西洋を渡った人たちが、渡航費を工面して親戚を呼び寄せるという回転です。

 中世のまま取り残されたように貧しかったのは、南アイルランドでした。地主たちはイングランドに住み、アイルランドの農民はそこを小作して生活していました。フランスの農村部と同じような状況だったのです。ちがうのはフランスの農民たちが穀物にこだわっていたのに対して、アイルランドではジャガイモの栽培が普及して、それが命綱になっていたことです。これはこれで、後に〝ジャガイモ飢饉〟が起きてしまいます。

 さて蒸気機関が開発されるまでのイギリスの主な動力は「馬力」でしたから、南アイルランドイングランドで使役される馬を養うための牧草地帯でした。しかしこれに転機が訪れます。馬が徐々に不要になってきたことと、穀物価格の上昇でした。地主たちは、牧草地を農地に転用して、オート麦や小麦の栽培を始めます。

 アイルランドの農民には、一家がジャガイモを自耕自給できる1エーカー(0.4ヘクタール)の土地を無料で貸せばよかったのです。多くの農民たちが引き寄せられ、最低限度ながらも生活が可能になったのです。

 ではイングランドは、工業化の進展で順風満帆だったかといいますと、そうでもなかったのです。人口増加だけではなく、貧富の差はますます拡大し始めていました。そして彼らもまた大都市ロンドンに流入していました。フランスと同じように政治革命が起きる下地は十分にあったのです。

 そこでエリザベス一世の時代からあった救貧法が、たびたび改正されていたのです。ここに福祉としての再配分がどの程度必要なのかという、現代においても解決されていない難問が立ち上がりました。マルサスが「人口論」を著わしたのもこの時代です。牧師であったマルサスの父は、ルソーの啓蒙主義の影響を受けた人道主義者でした。対するマルサスは不要な支援がますます人口を増やし貧困を蔓延させるのだというものです。マルサスの側には「貧困は自己責任である」という勢力も存在したのです。つまりマルサス親子の確執は、社会全体の論争を象徴していたのでした。

 こうした状況のなかで、フランス革命のニュースは刻一刻とイギリスに伝わりましたから危機感が発生しました。そしてついにナポレオン軍によるヨーロッパ支配とイギリスへの侵攻も始まり、危機は現実のものになったのです。イギリス連合国内には、宗教対立や名誉革命以来の主導権争いが常に燻っていましたが、こうした国家の危機に乗じて反政府活動をすることは、敵を利する行為だというコンセサスは当時からあったのです。

 連合国として一致団結して、フランスに対抗する方向に動き出し、それが結果的に余剰人口を吸収したのです。まず軍隊は兵士を集めました。沿岸部の失業者はもちろんのこと、港町にたむろする〝ならず者〟たちをも、海軍がさらったのでした。スコットランドからの入隊者はさらに増えて、全就業者の4%に達しました。

 さらに救貧法も改正されたのですが、画期的だったのは、「給付金はパンの価格に応じて増額する」ということでした。今日でいう物価スライド制です。戦争がもたらすであろうインフレの危機から、生活を守る準備できました。革命期のフランスでは、財政難から入隊する兵士は自費で軍服を用意しなければならかったこともあったのですが、イギリスは完全支給でした。

 兵士たちに衣服や武器など、ひととおりの装備を用意するだけでも、工場はフル稼働することになったのです。さらに有償か無償かはわかりませんが、イギリスは同盟国のオーストリアプロイセン・ロシアの同盟軍に補助金を出しました。これらの同盟国では工業化は起きていませんでしたが、フランス軍との戦場でもありましたから、その補助金での武器・物資の発注先はやはりイギリスでした。つまりはイギリス製の武器を、同盟国にローンで販売したということでしょう。こうして、それまでの個人消費にかわって、陸海軍が高価な工業製品を買い付けてくれますから、民間事業者も安心して増産ができました。それまで工業化が遅れていたスコットランドウェールズにもコークス鋼炉が建設されたのです。

 冒頭で述べましたように、1791年に1450万人だったイギリス連合王国の人口は、1811年には1810万へとさらに増加したのですが、こうした流れで完全雇用が達成されたのでした。

 これを支えたのは政府支出でした。ほぼ同時期の政府支出額は、約20年間で220万ポンドから1億2300万ポンドに5倍以上も激増したのでした。この政府財政を支えたのが、商業銀行として設立され、やがて世界初の中央銀行に昇格したイングランド銀行でした。

 戦争が終わってみますと、銀行には資産として国債が積み上がっています。敗戦になるとこれは債務不履行になるリスクが高いですから、資本家は破産します。一方の国家側にとって国債は負債ですから、それに見合う賠償金を相手国から取らなければいけなくなります。取れなければ国債は国有資産の売却か増税によって償還するしかありません。

 つまり富国強兵によるユースバルジ緩和策は、覇権国だけが成功する手段で、再現性はないということです。