少子化の正体

「80・2.0の壁」とは?

人口減少時代になぜ戦争? (1/2)

人口増加は騒乱のもと

 新型コロナ騒動がひとまず落ち着くと同時に、ウクライナ戦争が勃発しました。

 この戦いにも関心が薄れ出したころに、パレスチナ紛争が勃発しました。この地域では過去20年ほどの間にも、何回かの衝突はありましたが、日本での報道はないか、あってもわずかでした。

 また今年2023年に入って、アフリカのスーダンニジェールで内乱が起きています。2年前にはマリでクーデターが起きました。

ところで1992年にソビエトが崩壊し、米国覇権による「経済グローバル化」の流れでしたら、もう戦争は起きないだろうというリベラルな考え方もありました。なぜならブロック経済からグローバル経済に移行しますと、すべての国が貿易相手国になり、経済的に相互依存するからです。いうなれば「相互依存による平和」です。

こうしたグローバル化は、過去にもありました。1900年代初頭です。パナマ運河が開通し世界は蒸気船と鉄道で結ばれ、イギリスを中心にして、経済のグローバル化が完成したのでした。やはり「相互依存による平和」が来た、戦争はもうないという楽観論が唱えられたようですが、ほどなく2度の世界大戦が待っていました。

当時、グローバル経済から一転して大戦に突入した要因は、それこそ多岐に渡るでしょうし、一生かけても読み切れないほどの分析本が存在するでしょう。ここでは単純化してその要因を挙げますと、人口激増と貨幣経済の破綻ではないでしょうか。産業革命が起きると、例外なく人口が急増しました。先陣を切ったイギリスは北米とオセアニアへの入植によってこれを軽減しましたし、フランスはそれまで一人の女性が産む子ども数が、8人から9人と、ヨーロッパ最大であった出生率を抑えました。しかしすでに生れ育った若者たちが、あふれていました。15才から25才の若者の人口比が20%を超える状態はユースバルジ(youth bulge)といわれ、歴史的に革命や動乱・戦争が起きやすい社会情勢といわれています。フランスのまさにこの時期に起きたのが、フランス革命でした。映画レ・ミゼラブルでも描かれているとおり、一片のパンを手に入れるのも困難な状況に陥りました。結局、ナポレオン帝政まで入れると、200万人がこの革命で命を落としています。人口比でみますと、当時のフランスの人口は2700万人だったといわれていますから、7.4%にあたります。この死者数の人口比は、フランスにとって、このあとの2回の世界大戦によるそれよりも大きいのです。フランス革命の背景は多様でしょう。が、 だれかが「パンがないなら、ケーキを食べれば」と言ったことに怒りが爆発したとしても、その情動には数年に及ぶほどの持続性はないでしょう。やはり人口増加圧力が、動乱のエネルギーになったといえるでしょう。

 

 フランスに続いて産業革命を起こしたロシアとドイツにも、やはり人口増加圧力がかかってきましたが、入植先も植民地も、もうありませんでした。

ここで高校の世界史程度に、第一次大戦をおさらいしてみましょう。ドイツとロシアの人口増加圧力は、周辺国を圧迫します。宗教と民族がモザイク状に入り混じり貧困が蔓延して、かねてから「欧州の火薬庫」といわれていたバルカン半島で、セルビア青年がオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子を暗殺したのです(サラエボ事件)。この犯人青年は、この地の小作農の家に生まれ、9人兄弟のうち、6人が乳児期に死亡しています。親の反対を押し切り小学校に入り、森林伐採の仕事をしていた兄の援助を受けながら、中等教育を修了しましたが、まともな仕事には就けず、小規模な政治組織に傾倒して行きました。

大国が糸を引いた事件ではありませんでしたから、この青年を逮捕処罰すれば事件は終わるはずでしたが、これが3年半に及び、ローマ法王すら止められない泥沼戦争に突入しました。

 ドイツはロシアとの東部戦線とフランス・イギリスとの西部戦線と2面戦争に落ち込みました。国家総動員体制での武器の大量生産と、塹壕からの砲撃による消耗戦に入りました。ドイツでは男性は戦線に立ちましたから、国内の軍需工場での生産に従事したのは、女性たちでした。子どもを工場に連れて来て働いたのです。これが職場内に託児所が構えられた最初だといわれています

またドイツにも同盟国がありました。オーストリア=ハンガリー帝国ブルガリアオスマン帝国です。しかしこれらの同盟国はまだ近代化は起きていませんでしたから、ほぼ中世のままの軍備で、有効な戦力ではありませんでした。

結局のところ、ドイツ陣営(同盟国側)の敗北に終わるわけですが、この大戦による死亡者の人口比は市民(非戦闘員)を含めて、ドイツ陣営(同盟国側)5%、英仏陣営(連合国側)1.19%でした。連合国側の人口比が低くなるのは、米国をはじめ旧大英帝国が参戦しているからでもあります。死者数の人口比が高かったのがオスマン・トルコで、13.72%に上りました。これだけの犠牲者を出したオスマン・トルコもイギリスに降伏しパレスチナをイギリスに割譲しました。この後の第2次大戦でもユダヤ系金融機関から戦費を借りていたイギリスが、この地を借金の形に彼らに引き渡して、1947年にユダヤ人による武装入植がはじまりパレスチナの78%の土地が占領されました。翌48年にスラエルが建国され、それにともないパレスチナ人は難民化して今日まで紛争が断続しているわけです。

さて大戦が終わってみると、トータルでの債権国は米国だけでした。戦勝国の英仏ともにアメリカから資金を調達していたからです。英仏としてはドイツから賠償金を取って、米国に支払うしかありませんでしたから、ドイツには返済不可能な請求書が来ました。

一方の債権国の米国は、一人勝ちの黄金の1920代を謳歌しました。日本も、大正時代にあたりますが、戦後の荒廃で生産力を失った欧州にかわり。アジアやアフリカへの日用品の輸出が伸びて好景気になったのです。しかし1929年のニューヨーク株式の歴史的な大暴落が起きます。20年代の繁栄は、終わって初めて知るバブルだったのです。失業率は20%を越えましたから、大恐慌です。

 日本も昭和恐慌に陥ります。明治初期には3300万人程度であった日本の総人口は、この頃になりますと7000万人に達し、倍増していたのです。平均して人口が毎年1%以上増加する状態ですから、現在の人口でみますと、100万人都市が毎年70年間、出現する状態です。これは特に若者人口が多い“ユースバルジ(youth bulge)”といわれる人口動態です。

「大学は出たけども」というのが流行語になったそうです。当時の大卒はほんの数パーセントの超エリートのはずですが、彼らにすらまともな仕事がない。社会は、やはり人口増加圧力に押されます。

ハワイを始め米国西海岸から南米へと移民を出しても、すでに欧州からの入植者がいますから、出せる人数は限られて人口圧力は増すばかりでした。そして満州に目が向くのです。しかしこのことが、欧米によるABCD包囲網といわれる経済制裁に結びついて、経済が縮小しますから、相対的に人口増加圧力が強くなってしまいました。

この時代の恐慌とくに米国のそれについての研究は山ほどあり、「もっと貨幣を増やすべきだった。」という学者が多いようです。日本も同じです。金本位制の縛りを外して、必要なだけ印刷すべきだったという論を今でも見かけます。

一方には、紙幣の発行を際限なく必要なだけ実施した国がありました。ドイツ(ワイマール共和国)です。おカネがないなら印刷すれば良い。実行してみたら、結果はハイパーインフレでした。この時代の逸話がいろいろ残っています。たとえば、ビールばかり飲んでいる兄と、倹約家の弟がいた。最終的に弟が貯めたおカネより、兄が飲んだあとのビール瓶の方が価値が高かった。あるいは、給与をもらったら走ってパンを買いに行かないと、もたもた歩いている間に値上がりしていた。実際、最終的には、パンを買うのに荷車一杯の紙幣が必要でした。最終的に1兆倍のインフレだったのですから、現在の日本ですと、一個20円の卵が20兆円に高騰している感覚です。

これが財布? (当時のドイツで紙幣を背負って歩く人々)

こうした、人口激増のなかでの、貨幣経済破綻がドイツではナチス、日本では軍部の台頭の肥やしになり、資源の奪いへと突入したわけです。第二次大戦による軍民合わせての死亡者数は、資料によって変動がありますが、おおよそ日本320万人(人口比4.37%)・ドイツ900万人(同8.0-10.5%)・戦勝国ソビエトが2800万人(同13.5%)と言われています。ソビエトの主な戦場は現在のウクライナでの地上戦でした。結局のところ、人口増加に対して、それにみあうように生活資源を増やすことができず、人口を減らしてつり合いを取ったということになります。

言い換えますと、貨幣を増やすか減らすかよりも、実質的な生活資源が人間の生存には必要だとういう、当たり前の結論になります。もちろん資金の増加が生産を刺激するという反論もあるでしょうが、それとて実物資源があればのことです。

 人間は、ヤギではありませんから、紙幣を食べて生きることはできないのです。