少子化の正体

「80・2.0の壁」とは?

第2次ベビーブームの背景は高度経済成長(1/2)

 

1960年(昭和35年)代から増加に転じた出生数

ここで戦後の年間総出生数と、一人の女性が一生の間に産む子どもの数を表す合計特殊出生率(以降は単に「出生率」と表記)の戦後推移を見てみましょう。

内閣府HPから引用

グラフが1947年からスタートしているのは、それ以前の2年間は戦後の混乱で人口動態の調査や推計ができなかったからです。

さて出生数は49年の約270万人から50年代後半の150万人台へと、110万人・比率にして40%減少しています。大げさに言いますと半減です。この減少の表面的な要因は、出生率の減少で説明できます。戦後すぐの4台から2台へと半減しています。つまり第一時ベビーブームの頃は、女性ひとりあたり平均して4人の子ども産んでいたのが、2人に減少したからです。

ではさらに、なぜ出生率は減少したのでしょう。戦後のベビーブームを見て人口爆発を恐れた政府は、50年代には産児制限に乗り出しました。

 それもむべなるかでしょう。江戸時代末期の1850年に3200万人だった日本の人口は、100年後の1950年には8300万人に増加していました。この人口の激増が、かつての植民地獲得への強い圧力のひとつになったからです。そしてその結果は周知のとおりの惨状でした。歴史的にみても、人口減少は静かな危機ですが、その増加は暴力を巻き込み戦争に発展しています。

 こうした背景もあり、政府は「少なく産んで賢く育てよう」というプロパガンダを広めたのです。そのつい10年前の戦前・戦中には「産めよ増やせよお国のために」でした。しかし「産めよ」にせよ「産むな」にしても、政府のご都合政策が有効であったためしはありません。

出生率が低下した大きな要因は、乳児死亡率の低下だと考えられますが、これについての記述はかなりの紙幅が必要ですので、あらためて別の機会にします。

さて、50年代後半に底を打った出生数は「ひのえうま」の年を除いて上昇トレンドに入っています。このころ第一次ベビーブーム世代(団塊の世代)はまだ未成年でしたから、トレンドを変えるほどの出産はなかったでしょう。このトレンドの変換をもたらしたのは、出生率の増加です。戦後一貫しての下げトレンドから、ゆるやかながら上昇に転じています。当時は「夫婦と子ども2人」世帯が標準になりつつありましたが、3人目を産む家庭が少し増えたということです。ただ、ここまでは起きた現象を確認しているだけです。

考察すべきは、ではなぜ出生率が上昇したのか、ということです。男女が結婚して子どもを産み育てる背景には「個別の多様な要因が複雑にからみ合っている」でしょう。その中から、批評に耐えられ再現性のある共通要因を抽出しなければ話は前には進まないのです。

 

日本創世記以来の経済成長

60年代初頭から始まり、74年に収束した要因とは、はやり高度経済成長でしょう。ここで戦後マクロ経済のトピックスを年表方式で並べてみましょう。

 

暦年   トピックス

1946-49  傾斜生産方式

   1949 ドッジ・ライン

1950-53 (朝鮮戦争)特需景気

 55-57  神武景気 

    57-58 なべ底不況 

58-61   岩戸景気

63-64   オリンピック景気

    65 (昭和40年)不況(証券不況)

65-70   いざなぎ景気

    71 ニクソン・ショック

    73 第一次オイルショック

 

 ところで農耕の時代には米の収穫はその年の天候に左右されて、不作の年が続くと飢饉が起きますから、社会は不穏になり、出産や寿命も揺さぶられました。工業化の時代に入ると、気象変化からは解放されますが、需給バランスや在庫調整の影響からか、やはり好況と不況の波があります。ただ戦後からオイルショックまでは、好不況の波はあっても、基本的には上げ潮でしたから、津々浦々まで干上がることなく豊かに満たされていきました。

ではどのように豊かに満たされたのか、経済年表を確認してみましょう。第一次ベビーブーム終焉のきっかけとなったドッジ・ライン(緊縮財政)から、朝鮮戦争特需で息を吹き返しました。米軍が日本を補給地にしたからです。そこから神武天皇の即位以来と言われる好況期を迎えています。これは戦争特需ではなく、国内の投資と消費による経済成長でした。人々が欲しがったのはテレビ・冷蔵庫・洗濯機で「三種の神器」といわれました。街頭テレビでプロレスやプロ野球を見ていたのが、自宅で冷えたビールを飲みながらテレビを見るという、それまで一部のお金持ちしかできなかった生活が手に入るようになったのです。

テレビ番組の司会者も「お茶の間のみなさま」と呼びかけるほど、テレビの前に全員集合でした。洗濯機の普及は、主婦の家事労働をずいぶんと軽減したことでしょう。つまり家庭生活のための需要と供給が嚙み合っていたのです。「もはや戦後ではない。」「所得倍増」などの政府発言が、当時は現実的なことでした。敗戦からわずか10年後のことでした。

それから、いつまでもダラダラと底を這うようなことを形容した「なべ底」不況を越えて、有史以前の神話以来のという意味の「岩戸景気」、さらにそれを上回る神話上での日本の創世記にあたる「いざなぎ」以来の活況となりました。つまり未曽有の高度経済成長期に突入したのです。この頃に需要が高かったのが、「新・三種の神器」まとめて3Cと言われていたカー・クーラー・カラーテレビでした。平日の夜は涼しい茶の間でカラーテレビを見て、日祭日には家族でドライブに出かかるという、やはり家庭生活のための消費財群です。自分は富裕層ではないけど、貧困層でもなく人並だという「一億総中流」の社会気分が共有されました。

 

ところで、この期間のほかの先進国の優先課題のひとつは軍事力の増強でした。東西冷戦の時代でもありましたから、反撃力・抑止力というキーワードを満たすために米国とソビエトを両極として、核兵器とそれを乗せるミサイルの開発に熱中していました。仮想敵国よりも強力で、撃墜されいよう高・高度で飛ばす兵器開発競争は、ついに宇宙まで届いていました。

いっぽうの敗戦による武装解除の日本は、ありふれた「三種の神器」でみんなが豊かになったわけですから、「負けてうれしい花いちもんめ」だったのです。

55年から70年にGNP(国民総生産)が5年ごとに2倍になる高度経済成長をとげ、ついに当時の西ドイツを抜き、米国に次ぐ世界2位の規模に達したのです。

 たとえば江戸時代を通じて米の石高は田圃の開墾と農業技術の改良によって3倍に増えたのですが、人口もまた3倍になり、ひとりあたりの食い扶持は増えませんでした。しかし今回は、人口は5年では倍増しませんから、ひとりあたりの所得も倍増したのです。

こうした経済成長による所得の増加が、第二次ベビーブームの要因だったと考えられるのです。