少子化の正体

「80・2.0の壁」とは?

バブル景気で少子化が止まらなかったのはなぜか?

1.57ショック - あれから毎年が「ひのえうま」

 戦後2回のベビーブームの背景が、戦後復興景気や高度経済成長など経済の拡大なら、バブル景気(1986-91)で、それまでの少子化の流れが、一時的にせよ反転したのか。当然、そうした疑問が出てきます。バブル景気時のGDP成長率は、実質で5.3%でした(内閣府)。いざなぎ景気(1965-70)11.5%の半分ではありますが、実態経済も成長していたのです。

 では少子化は止まったのかといいますと、70年代前半にピークをつけた出生数も出生率もそのトレンドを変えませんでした。その流れの中で出生数が、89年に1.57になったのです。これは66年の「ひのえま」の特殊要因による1.58を始めて下回り「1.57ショック」と言われています。「ひのえうま」の特殊要因とは、その年は「縁起が悪い」という言い伝えがあり、産み控えが広く発生したことを指しています。あれから今日まで毎年が「ひのえうま」で、出生率が1.58を超えたことはありませんでした。

 それはなぜなのか。高度経済成長期とは異なり、経済成長の恩恵が給与として十分には配分されなかったからでしょう。「バブル」を日本語に直すと「あぶく」です。そうしますと、バブルマネーは「あぶく銭」ですから、「あぶく銭は身につかない」という諺にいきつきます。つまりバブル経済が「あだ花」で、少子化の流れをとめられなかった理由は、この諺が言い表しているでしょう。

 「あだ花」ということでもうひとつ有名な和歌を引用しますと、「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」。この和歌から時代は下って江戸期になりますと、山吹色とは「小判」の隠語でもありましたから、「財テク」として貨幣がいくら七重八重に飛び交っても、そのやりとりだけでは何も実を結ばないということを示唆しているのかもしれません。

 とはいえ、「バブルは過ぎてから初めてバブルとわかる」という著名な経済学者もいます。バブルの最中には、そのゲームに参加しているたいていの人たちが、今後もこうした状態が持続する、株も不動産も上がり続けるものという陶酔の中にいます。一方には、売り抜ける機会を虎視眈々とうかがっているごく少数の参加者と、直接的には、まったく関与せず無関心な大衆がいます。

膨らんだのは株価と不動産価格だった。

 では具体的に、一般的な総括に沿ってバブル経済を垣間見てみましょう。ことの始まりは、1985年のプラザ合意でした。米国の求めに応じて、日米英仏独が米国のプラザホテルに集められ、「ドル安」政策がしゃんしゃんで決定されました。日本ではまだ為替取引は自由化されていませんでしたが、主要国による協調介入ですから、その瞬間から円高が進行しました。プラザ合意の前には1ドル235円程度で推移していたのが、一年後の86年には150円になり、その後も120円に向けて円は高騰しました。

 円高不況を回避したい日銀は、当時の公定歩合を5%から段階的に2.5%まで下げました。現在のゼロ金利からしますと、大変な高金利ですが、当時としは脅威的な低金利だったのです。

しかもドル円で自国通貨が2倍になっていますから、ドル換算では国内の資金が倍増します。

 「不況」「カネあまり」「超低金利」と3つ揃えば、バブルの舞台は整います。2000年代と異なるのは、バブル紳士たちだけではなく、当時は庶民が舞台に上がったという点でしょう。団塊の世代が40才にさしかかり、マイホームの実需があったのです。つまりお金ジャブジャブという油がまかれたところに、住宅需要という小さなマッチを擦ったのです。

 91年までの5年足らずの間に、不動産価格は3から5倍に、住宅地の公示価格だけみても2.6倍に上昇しています。

 当時の住宅価格の高騰ぶりは、私にも実体験としての記憶があります。そのころ、私は30才くらいで、なんとか研修を終えて、関西の市民病院に勤め出しました。結婚したばかりでしたので、住宅購入の必要性に迫られていたわけではありませんでしたが、住宅価格が新聞のチラシを見る度に上がっているのです。「不動産価格が下がることはない」、「いま買わないと、もう買えない」。社会気分のみならず、周りの先輩医師たちが実際にそう言うのです。

 週末に、不動産屋さんを訪ねてみました。大阪万博の頃に建った、郊外の築20年以上で70平米くらいの中古マンションでも5千万円に近い価格帯でした。ローンをシュミレーションしてもらうと、公定歩合は2.5%でも住宅ローンは5%を超えていて、しかも頭金がありませんでしたから、手取り給与の半分が、消えるという結果でした。

 また頭金が貯まるスピードよりも住宅価格の値上がり速度が圧倒的でした。「無理ですね」と答えると、高校を出たばかりのような体格の良い青年が、スケジュールが詰まっているのか、仕立てが良さそうなスーツの袖をずらして、金色の時計を眺めながら、こうアドバイスしてくれました。「それでは一生、家は持てませんよ。」 

 市民病院の勤務医の給与ですら、平凡な中古マンションが買えない。当時の多くの新婚家庭が似たような体験をしたことでしょう。一方、「いま買わないと、一生買えない」。この呪文にかかり、通勤に時間がかかる遠方の狭い住宅を購入した人たちも、いました。ローンの支払いに追われ、おまけに89年から消費税の徴収も始まりましたから、家計はひっ迫したでしょう。「24時間戦えますか?」という滋養強壮剤のコマーシャルが流行るほどでしたから、もうひとり子どもを、という気には、とてもなれない経済・心理状況です。

ワンレン・ボディコンギャルとゆったり上着の男たち

独身貴族は「円高バブル」

 では独身者はどうだったか、大なり小なりバブルだったでしょう。急に流行り出したもので印象に残っているのは、イタ飯(イタリア料理)とティラミスです。20才代独身は、資産バブルには縁がありません。資産はありませんし、当時は株のデイトレードもなかったからです。また破格のボーナスが出る業種も限られていました。彼らが享受したのは、「円高バブル」ではなかったかと思われます。単純計算しますと、2倍の円高で輸入食材が半額になるわけですから、居酒屋感覚でイタ飯を選ぶことができるようになったのです。海外旅行に出かける若者も増え、北米・欧州・オセアニアはもとより、南極の入り口にも日本のギャルがいると言われていました。

 不動産屋の青年が身に着けていたのが、もしかしてイタリア製の生地やロレックスの時計だったとしても、不思議でありません。カネ廻りが良い業種でしたから、少し背伸びすれば手が届くところに円での価格が降りて来ていたのです。

 ただ豊かさを感じるのは海外に出た時だけで、国内の物価は若者の給与に対して高いままでしたから、日常的には“シャケ弁”を狭い部屋で食べる生活でした。

 ことほど左様に、あぶく銭は身につかず、少子化は止まらかったということでしょう。

 すこし理論的にまとめますと、つぎのようになります。

 出生数×平均寿命=配分率×GDP

 このなかで、配分率を通じて左辺側に経済成長分の一部分が行き渡らないと、出生数は増えないということです。バブル期には、不動産投資や建設が盛んでしたが、儲けたおカネを全部どころか、新たな借金を上乗せして、次の物件あるいはプロゼクトへと、つぎつぎ商法でした。若い世代へ安定的に配分されなかったので、少子化は止まらなかったといえるでしょう。