少子化の正体

「80・2.0の壁」とは?

「寄せ集め」でできたシシ神の姿

  夜の姿のデイダラボッチは確かに森を司る神のイメージです。それに引き換え昼の姿は、なにか奇妙です。もっとも神々の偶像は、現代でもいたるところにあるのですが、実際の神を見た者はいません。偶像は神の姿として先祖たちから延々と受け継がれた固定概念の具現化にすぎないのです。

 さてまずはシシ神の足痕です。それを見たアシタカが「蹄(ひづめ)が3つ」とつぶやきます。もし馬なら単蹄ですから1つ、鹿なら2つ、すなわち偶蹄のはずです。ヤックルも偶蹄です。山犬なら足底痕の大きめの円形の周囲に小さな4つの爪痕を残すでしょう。しかしシシ神の足跡は、動物たちのどれでもなく3つです。 

こうしてシシ神の姿に対する空想が広がっている時に、金色に輝く彼方を、牡鹿の群れと横切るシルエットが表れます。空想を裏切ることなく、神の姿を彷彿とさせます。輪郭だけですから、細部に対する勝手な想像力が働くからでしょう。 

しかしやがて姿が明らかになるにつれて神のイメージから離れていきます。

 なぜなら全身がいろいろな生き物の寄せ集めになっているからです。まるでひと仕事終えて自宅に帰り、なんでも手当たり次第に部屋着として着ているかのような印象で、威厳も荘厳さもありません。ただ風変わりな生き物なのです。

 まず空想をかきたてた「3つの蹄」は、鳥類によく似た下腿から足関節の先に付いていました。 

 体幹は基本的にヤックルに似たカモシカですが、異国のヤクやアラパカのように毛が長い。やはり寄せ集のパッチワークです。

それから顔全体はサルですが口元はヤギのようでもあります。そして最も強い印象を与える目は、一見すると何かを知り尽くしたヒトのようでもあります。

ヒトの目の特徴は、球結膜が白色で、かつ虹彩を挟むように鼻側と耳側が露出していることです。いわゆる白目と黒目が明確なのです。地球上に分布している現代人の黒目には、人種によって茶・青・緑などの色の違いがあり、またその濃淡にも個人差があります。

しかし白目を形成している球結膜は、人種を越えた種(しゅ)としてのヒトに共通であり白色です。もし白目の部分が赤く見えたら充血ですし、黄色くみえたら黄疸(おうだん)です。ただ赤ちゃんの白目に青みがかかっているのは、まだ結合組織の発達が十分ではないため、その深層の血管の色が透けているからです。

ちなみに山犬のモロの球結膜は黄色を帯びていますし、ヤックルは目全体が黒で、白目は瞼に隠れてみえません。

アシタカもサンもくっきりと、白黒明確な目ですから、眼球の動きで精神的な動揺や信頼感といった心情が相手に伝わりやすいのです。「目は口ほどに物言う」のは、こうした白黒のコントラストによるところが大きいわけです。アシタカのように誠実な人物は「曇りなき眼」で相手を見つめれば、悪意がないことが伝わるでしょうし、反対に「拙僧」ことジコ坊のように陰謀を抱く者は、それを悟られないようにしなければならないのです。

ではシシ神の瞳はといいますと、ワインレッドというべきでしょうか、球結膜は青みを帯びてはいるようですが、黒目の両側ともに明確に露出していますからヒトの眼球のように見えます。

 しかしながら、静止画像でみますと、ヒトでも、この世の生き物でもありません。それは瞳孔が横に楕円形になっているからです。片方だけなら虹彩の癒着など目の病気の可能性がありますが、左右対称ということはあり得えないからです。

 ではシシ神はいかにして、ほかの動物たちの一部分を寄せ集めて、自らの姿を構成したのでしょうか。シシ神に両親はいないはずですから、親から受け継いだ遺伝ではないでしょう。実は、この一部分を寄せ集めるシステムの中に、ウイルスの謎を解く鍵が隠れているのです。

手がかりは、いうなれば「水平遺伝」というDNA獲得の手段です。シシ神がこのシステムを利用してDNAを拾うのは簡単です。なぜならシシ神は森そのものですから、すでにすべての生物の遺伝子を内包しているからです。いうなれば外被をまといウイルスの形になっていたとしても親和性がありますから、どれでも好きなDNAを選んで、体の各部分を形成できるわけです。

また、すでに絶滅した動物のDNAを持っていても不思議ではありません。なぜなら森が発生してからの恒久の時間を生きているからです。シシ神が歩くと、その足跡に一年草が生えます、しかし次の瞬間には枯れるのです。生命を与え奪う力も持っていると解釈されています。しかしそれだけではないでしょう。1歩が1年という長さを象徴しているなら、万歩は恒久の時間を示しています。これまでに幾多の生き物たちを包みこんできたのです。

昼間の姿は、いうなればデイダラボッチが着た日光除けのための室内着、あるいは着ぐるみです。