少子化の正体

「80・2.0の壁」とは?

北里柴三郎の功績と悲運

 今回の新型コロナ感染制御策のひとつとして、世界各国は出入国制限をしました。日本も同じで静かな鎖国でした。江戸時代の本物の鎖国は、感染制御の手段としては大きな効果を持ちました。たとえばコレラは、江戸期にも長崎から入り込みましたが、やはり大流行を起こしたのは開国後でした。

 またペストが日本に入ってきたのは、中世ヨーロッパでの大流行から5世紀後の1899年(明治32年)でした。

幸いにして、流行は手際良く抑え込まれ、その時から今日まで1世紀近くも再発していませんから、国内的には根絶されたと言っても良いでしょう。この一連の感染制御に最も功績があったのは、やはり「日本の細菌学の父」といわれる北里柴三郎です。彼の業績と重ねて日本でのペスト流行を振り返りましょう。

北里は幕末に現在の熊本県小国町に生まれています。13歳で小国町から阿蘇山を越えた遠方にあたる熊本の私塾に入り勉学の一歩を踏み出しました。それから学歴を重ね30歳で東京帝国大学医学部を卒業し、その年に現在の厚生労働省にあたる内務省衛生局に就職しました。

そして翌年には、ベルリン大学のコッホ研究所への留学を命じられます。周知のとおり当時のコッホ研究所はフランスのパスツール研究所と並ぶ世界双璧の細菌学研究所でした。

どの分野においても研究者には頭脳のほかに実直さが要求されます。北里はこの2つの才能を世界基準で兼ね備えていたのでしょう。共同研究者のベーリンとともにまず破傷風菌の純粋培養に成功します。それから血清療法を世界で始めて確立しました。血清療法とは、患者や感染動物から取り出した人工的な抗体を注入して治療する方法です。抗菌剤がまだなかった当時としては画期的なことでした。この血清療法は破傷風ジフテリア、ともに毒素を分泌し致死率の高い感染症の治療法として研究が進められたのです。

特にジフテリアは世界を悩ませる感染症でしたから、これに対する血清療法は世界的に賞賛されました。後にベーリングはこのジフテリア血清療法に関する功績で第1回ノーベル医学生理学賞を受賞しました。そしてこの栄誉は北里がいたからこそのものだ、と語ったと言われますが、当の北里は候補には挙がっていましたが受賞には至らなかったのです。

その理由は、ノーベル賞選考委員会において北里は研究技師とみなされた、あるいは当時は共同研究者という位置付けがなかった、また白人至上主義の時代ですから、東洋人に対する差別だったという過激なものまであります。差別については選考委員会もまさか、そうです、というはずもなく明確に否定しています。

 ノーベル賞候補は後の出来事だとしても、すでに細菌学者として世界的な業績を上げ知名度も高い北里の帰国を待っていたのは、勲章の授与ではなく「冷遇」でした。内務省にも戻れず、行き場がなかったのです。見かねた福沢諭吉らが私財を投じて伝染病研究所を創設して、さしあたりそこの初代所長として研究を続けることになりました。

  脚気菌」に固執した森鴎外からの逆風

 帰国後のこの逆風の発生源は、「脚気菌」に固執するというよりも信仰していた当時の陸軍軍医である森林太郎ら、すなわち小説家・森鴎外たちです。この経緯を知るには、まず「脚気」とは何かということから説明する必要があるでしょう。

 脚気(かっけ)とは、遭難や極度の偏食など特別な事情がない限り今日では発生しないビタミンB類欠乏による症候群です。「江戸患い」として古くから知られていました。 

つぎにビタミンB類の体内での作用について簡単に説明しましょう。たとえば米飯を食べると、最終的に体内でブドウ糖に分解されることはよく知られています。しかしブドウ糖のままではエネルギーにならないのです。ブドウ糖がTCAサイクルといわれるミトコンドリア内の代謝経路に入りATP(アデノシン3リン酸)という形になってはじめて細胞を活性化するエネルギーとなります。

 余談ですが、ブドウ糖がTCAサイクルに入る部分で必要になるのがインシュリンです。ですからインシュリンの欠乏はもちろんのこと働きが不十分でも、血液の中にはブドウ糖が過剰なほどあるのにブドウ糖はTCAサイクルに入れませんからATPが合成されず、細胞内のエネルギーは枯渇して飢餓状態になります。これが糖尿病なのです。

 さてビタミンB類はTCAサイクルの補酵素として機能しています。いわば潤滑油ですから、これがなければサイクルは回転しませんので、ATPは合成されず筋肉・神経・心筋系などすべての細胞は活動を停止して最終的には死亡するのです。まず最初の症状として浮腫みと痺れ感で足が動かなくなることが目に付くので「脚気」と言われるようになったのでしょう。進行しますと神経系や心筋系も働きが悪くなりますから、やがて精神錯乱や息切れ・動悸も併発します。

 この病気は江戸でよく見られて、参勤交代や商用を終えて国元に戻ると自然に治りましたから「江戸患い」と言われていたのです。風土病のようにも見えるこの病に、江戸で罹り国元で治ったのはなぜか。それは花の都では皆に合わせて気前よく「銀シャリ」を腹一杯食べて、国元ではもともとの麦や雑穀を食べましたから、ビタミンBが補給されて欠乏症状が改善したからです。 

 白米にはカロリーはあるけど栄養素がないため副食が必要であることを現代の私たちは良く知っていますが、日本のみならず世界的にも欠乏症という概念が全くなかった当時は風土病か奇病と見なされていたのです。

  「江戸患い」から「陸海軍患い」へ

 明治に入り徴兵制が布かれるに伴い貧しい地方部から多くの若者が召集されました。軍では兵士ひとりに1日に白米5合を食糧として供給していたようです。若者たちはこれまで盆か正月にしか口にできなかった白米飯を毎日食べられることを喜んだと言います。しかしやはり「脚気」で倒れる者が続出したのでした。原因究明に着手したのは海軍でした。この状態では訓練はおろか軍艦の運行もできないからです。イギリス留学経験がある海軍軍医・高木兼寛は、欧米の軍艦では脚気はみられないことに着目して、今日では考えられない「実験」をしました。ひとつの軍艦はこれまでどおり白米主体で、もう一方は洋食を採用して訓練航海させたのです。

 結果は白米側の死亡者23人に対して洋食側はゼロでした。それでも洋食を嫌う水兵たちがいたため、試しに白米に麦を加えてみたところ、パンと同じように脚気を防げることがわかりました。これはなぜなのかという、さらに踏み込んだ研究は学者の仕事ですから、高木は軍医という職責を十分に全うしています。これは日清戦争以前の出来でした。

 これに対して陸軍は,海軍への「対抗意識」や「意地」といったカルト的な反知性主義に支配されていました。その結果、日清戦争では戦闘による死亡者453人に対して脚気による死亡者は3944人。続く日露戦争では、戦死者4万7000人に対して脚気罹患者が25万人うち死亡者2万7800人に上りました。かの有名な二百三高地の肉弾戦を、脚気の足で戦わせたということです。

 陸軍兵士たちから、自分たちにも海軍と同じように洋食か麦飯を食べさせてほしいと日清戦争後から再三にわたり懇願されていましたが、陸軍がしぶしぶそうしたのは日露戦争後で、海軍の食事改革から30年も後のことでした。この惨状でもなお、「脚気菌説」を抱えて居座り、左遷されるどころか、ついに陸軍軍医総官にまで登りつめたのが森鴎外でした。

 鴎外は頭脳明晰で、年齢を2歳偽って東大医学部に入学し19歳で卒業しました。北里は森からすれば年上後輩であり、森が陸軍軍医としてドイツにも北里より先に留学しています。森ら東大卒でドイツ留学の経験がある者たちが陸軍軍医の権威だったのです。研究者でもない彼らがこぞって脚気細菌説に傾倒していたのです。 

当時は世界的に病原菌の発見があいつぎ脚光を浴びていましたから、脚気もそうにちがいない、と詳細な知見からではなく馬券でも買うように細菌説に一票投じていたのでしょう。

海軍の壮大な「実験」の後に、東大教授の緒方正規が「脚気菌」を発見したと報告されましたから、森たちは気を良くしたでしょう。しかしこの「脚気菌」の存在を明確に否定したのが、当時コッホ研究所に在籍していた北里だったのです。

当時の陸軍は山縣有朋に率いられた、いわば奇兵隊バージョン3・0ですから、森たちは奇医師団だったのでしょう。北里の行為は「恩師の業績を侮辱するものだ」というお題目を唱えて、東大一門が一丸となって北里包囲網を敷いたのでした。

鴎外は、海軍の食事改革や日清・日露戦争の惨禍を前にしても思考の修正は不能でしたから、なんらかの精神疾患の疑いがある気の毒な状態ですが、病は終生治りませんでした。1912年に鈴木梅太郎が米糠からビタミンB1の抽出に成功し、この物質の欠乏が脚気の原因であることが示唆されました。しかし鴎外はそれでもなお細菌説を曲げず、「百姓の眉唾研究」と反論したのです。「百姓」呼ばわりは、鈴木が東大農学部出身だったからです。森は軍医を退き文学に専念してくれたほうが、自他ともに幸福だったどころか、多くの命が救われたのでした。

ところで山縣有朋亡き後の陸軍は奇兵隊4・0として、暴走しさらなる惨事を招き壊滅しました。周知のとおり兵を太平洋全域に送り込んでは、脚気どころか餓死の山を築いたのです。

結果からみて軍医のみならず陸軍自体が反知性主義の塊だったでしょう。この集団を反面教師としますと、知性とは事実に基づいて考えを修正する能力のことである、ともいえるでしょう。では次にお手本として知性によるペスト菌の発見と防疫を見てみましょう。

 ペスト菌の発見

 1894年の香港でのペスト流行時に日本政府から北里に調査命令が来ました。日清戦争の数ヶ月前のことですから、純粋な防疫のためというより、作戦に支障が出ないかを判断するためだったのかも知れません。

北里は香港到着の2日後にペスト菌を発見して動物実験を済ませ、「ペスト菌(予報)」として医学雑誌ランセットに2編の論文を発表しました。

もうひとりフランスのパスツール研究所の細菌学者アレクサンダー・エルサンも、香港に来ていて北里よりも数日遅れで独自にペスト菌を発見しました。コッホは北里から送られてきた菌を培養し、エルサンの主張と同じ菌であることを確認しています。

しかしふたりの主張には相違点がありました。北里はペスト菌はグラム陽性球菌であるとし、対するエルサンはグラム陰性桿菌と主張したのです。これは菌の形状についての比較で、現在でもよく使われています。まず菌がグラム染色という方法で染まればグラム陽性そうでなれば陰性と分類します。また菌の形が円形に近ければ球菌で、細長い形であれば桿菌といいます。

結果的にはエルサンの方が正しいことがわかりました。北里はペスト患者に二次的に発生する菌の方を起因菌としたのではないかと言われています。ただ後の日本での流行の際に、北里は自分の部分的な間違いを認めています。

さて香港での流行から5年後に最初は横浜から続いて神戸からと全国的な蔓延の危機にさらされました。北里はペストの脅威を知っていただけではなく、痛い目にあっていました。

香港での調査団として北里に同行し患者の解剖を行った東大の青山胤通と北里研究所の石神亨それに香港在住の中原医師の3名がペストに罹り重症化したのです。このうち中原医師は死亡しました。

北里はもともと内務省衛生局の所属でしたから、医療行政にも精通していました。まず開港検疫法にペストを追加してさらなる流入を封鎖しました。この時の検疫医の選考に北里自らがあたり野口英世を採用しています。(後にふたりは連続して千円札の肖像になりますから不思議な縁です。)

東京市(当時)では家ネズミを買い上げる政策をとりました。保菌しているのはケオビスネズミノミですから、感染ネズミに近づきノミに飛びつかれる危険性がありましたが、結果として野生のげっ歯類へのペスト菌の伝播が防止されました。こうして日本においては1899年から1926年までの27年間に大小の流行が起こり,感染例2,905名(内,死亡例2,420名 )が報告されましたが、それ以降の感染例報告はありません。

さてペスト菌にはパスツールの名が冠されていましたが、エルサンにするべきだという提唱があり現在ではそうなっています。この提唱と決定が行われたのは、第二次世界大戦末期の1944年でした。日本もドイツも国際的に孤立していましたから、北里研究所にもベルリン大学のコッホ研究所にも、なんらの反論・弁明の機会はなかったのです。

それでもペスト菌の発見から病態の解明など北里の功績が色あせるわけではありませんが、やはりノーベル賞か、菌名にエルサンとの連名で北里の名を刻んでおいて欲しかったとだれしも思いますが、幸運の女神がよそ見をしていたのでしょう。