少子化の正体

「80・2.0の壁」とは?

奴隷制度を持ったことがない日本文明

奴隷なしにはローマは成らず。

 日本は人口が減少して労働力が不足しているのだから、もっと移民を受け入れるべきである、という論調が強くなっている一方では、次世代に禍根を残すから、慎重に考えるべきであるとする論も多くあります。しかし、なし崩的に外国人労働者は増加しています。さて、多くの移民を受け入れているのは、欧米です。彼らの歴史を振りかえれば、奴隷制度と切り離すことができません。現在の西洋文明の精神的支柱は、キリスト教ギリシャ哲学でしょう。古代ギリシャの哲学や自然科学の萌芽それに直接民主制など、輝かしい史実が教科書に書かれています。しかし、その社会を支えたのは奴隷制度であることは、ほとんどの中高生は知らないでしょう。

 奴隷とは、所有資産として譲渡・売買の対象となる人々のことです。奴隷と言いますと、鞭を打たれ酷使される「ガレー船」をイメージしやすいですが、家事や子ども世話など、現在も職業として存在する業務が多くありました。ですから、当時の最高の戦利品は、領土や金品ではなく奴隷だったのです。所有する奴隷の数が、市民のステータスを表すほどでした。

古代ギリシャ都市国家に、選挙権を持つ市民がどの程度の人口比だったかは、資料を持ち合わせていませんが、ともかく生活のための業務はすべて奴隷がやってくれますから、市民は哲学や政治学など、浮世離れした形而上学的なことを考えておけばよかったのです。そしてその頂点に立ったのが、プラトンソクラテスアリストテレスヒポクラテスなど、おそらく永遠にその名を遺すであろう偉人たちです。ちなみに子育ても奴隷がしてくれますから、子どもの数が増えそうなものですが、当時のギリシャでは少子化が進行したといわれています。

 屋外の仕事においても奴隷は使い勝手の良い人的エネルギーを発揮してくれます。現在でもエンジンの動力を表す単位とし「馬力」が残っていますが、1馬力は12人力です。しかし馬1頭を持つよりも、12人の奴隷のほうが有益です。なぜなら奴隷は食事と排泄は自立していますし、言語を理解して複雑な作業をこなすからです。

 ちなみに古代メソポタミアの神殿を初め、エジプトのピラミッドやスフィンクス・中国の万里の長城マヤ文明の祭祀場など、古代の巨大な建造物はすべて人的エネルギーによるものですが、確かではないのは、その労働力のうち奴隷の割合はいかほどだったのか、ということだけです。このように東西を問わず、古代文明は戦利品として得た奴隷を使役してきのですが、奴隷制度が最も浸透したのは古代ギリシャ都市国家ローマ帝国とされています。

 当時のギリシャでは、風車で鳴るオルゴールが、ローマでは歯車を使用して水平に回る水車がすでに考案されていました。しかしこの自然エネルギーが、家内の重労働であった石臼で粉を挽く動力としては使用されませんでした。奴隷が安価でしたから、女性たちが昼夜を問わず重い石臼を廻し続けたのです。1人の奴隷にかかるコストは、重労働が可能な2000カロリー程度の食料と粗末な衣服だけでよいのですから、ギリシャやローマが滅んでも、奴隷制度はなくなるどころか、大航海時代に入ると、奴隷貿易という大きな産業になったのです。

産業革命と同時に啓蒙思想が出て来ましたから、人権や人道意識が広がり、奴隷貿易を是認することは西欧社会でも困難になりました。その代替となったのが、武器と軍隊の近代化を遂げた西欧による植民地の獲得競争です。現地民を最低の報酬で使役して、作物・製品・富を本国に持ち帰る政策です。しかし第二次大戦終結後に、かつての植民地は独立を果たしました。

 西欧に限ったことではざありませんが、豊かな国の人々は、いうなれば3KY(きつい・きけん・汚い・安い)仕事を敬遠します。対策として、旧植民からの移民を受け入れてきました。植民地時代に英語やフランス語といった、宗主国の言語を公用語として強制していましたから、国境を越えて生活する上で最も重要な「ことばの壁」は,ないも同然です。

 さらに東西冷戦終結後は、経済や治安が破綻した中東やアフリカ諸国からの難民も殺到し、欧米では移民問題が政治的対立を引き起こすまでになっています。

 西欧に限らず移民の国アメリカでも、移民を受け入れてきたため、総人口は保たれていますが、もともとの市民社会少子化が進行しています。古代ギリシャと同じ人口動態です。

リンカーンよりも、300年先に奴隷解放をした豊臣秀吉

では日本はどうだったでしょう。確かに売買譲渡される人々が存在しました。しかし奴隷制度を是認したことは、いちどもありません。もっとも多かったのは無政府状態であった戦国時代です。日本で最初に黒人奴隷を譲渡されたのは、信長でしょう。ポルトガル商人が連れていた黒人を目にした信長は、「体に何か塗っているのであろう、洗え。」と家来に命じたというエピソードが残っています。その結果として、信長は、黒い肌の人間がいるということを、初めて知ったと言います。信長の気を引きたいポルトガル商人は、この奴隷を信長に「譲渡」したのでした。この黒人は、ポルトガル人のボディーガードも務めていたのでしょうから、体格も良く文武ともに優れた素養があったのでしょう。ついに「弥助」という名を持った武士になります。そして信長に伴って本能寺に宿泊していますから、信長の信頼を得て側近になったことを示唆しています。

 弥助を得た信長がポルトガル商人に依頼して、もっと多くの黒人奴隷を確保して、軍勢を強化するのは、困難ではなかったでしょう。しかしそうした史実はありません。

 戦国時代の日本では、入国した弥助は例外で、むしろ「奴隷輸出国」でした。もちろんそれは、まともな商いではなく、悪党たちの仕業でした。繰り返される大小の合戦で、奴隷狩りが行われていたのです。この構図は、古代ギリシャやローマと同じですが、違うのは日本列島内で行われたことと、奴隷狩りを行ったのは、身分の低い雑兵たちだったのです。農村部からあふれた若者たちの働き場は、戦場だったのです。しかし戦場のフリーターたちには、戦勝したところで、俸禄はありませんから、略奪と奴隷狩りが報酬だったのです。こうして駆り出された、婦女子を含む人々は、国内外に譲渡・売買されていました。当時のポルトガル商人らは、マカオから日本に綿織物を運び、戻り船では銀・刀剣・そして奴隷を積み出していたのです。マカオから先の売買先は定かではありませんが、フィリピンには多くの日本人奴隷や傭兵が、また現地のスペイン人家庭で働く日本女性がいました。こうして日本から連れ出された人々は、10万人に上るともいわれています。当時の人口比の1%以上ですから、この比率を現在人口にかけますと、120万人ということになります。

 やがて秀吉の天下になり、たまたま九州に来ていた彼は、日本人がポルトガル船に押し込められていることを知りました。なぜ「買うのか。」とポルトガル商人に聞くと、「日本人が売るからだ。」と答えたと言います。秀吉は、奴隷を買い戻し元の在所に帰しました。

そして、「人身売買禁止法」を発令して、これまでの奴隷の売買はすべて無効であり、もとの在所にもどせと発令したのでした。もちろんこれは国内向けで、海外には及びませんでした。

 やがて江戸幕府体制になりますと、、東南アジアでの覇権を争う国が2つのグループに分かれます。イギリス・オランダ対スペイン・ポルトガルの構図です。イギリス・オランダ軍は、平戸商館を拠点に日本を兵站基地にしようとしました。すべての戦場を閉じた日本には、高性能の鉄砲や刀剣が豊富にあったからです。1621年に、イギリス・オランダは、幕府に対して2-3000の軍を派遣するよう要請しました。しかし、幕府は諸国との友好中立と交易の自由と安全を原則として、国際紛争への介入に慎重であったため、これを断ったばかりか、「武器・奴隷・傭兵の禁輸令」を出したのでした。

 こうした政策が「鎖国」の一端とされますが、交易は行うが人の出入国と武器輸出は禁じるということでした。西洋に対しては長崎の出島だけ開いていましたが、当時の物流はそれで十分だったともいわれます。

 ともかくもこれで日本からの奴隷や傭兵の流出は完全に止まりました。これによって、270年にも渡り、平和で治安が良く、子どもから高齢者まで安心して暮らせる「話せば分かる」社会が形成されたのです。確かに、身分制度がひかれましたが、奴隷制度とは比べものになりません。日本文明は、外国人奴隷の使役による甘い汁を吸ったことがありませんから、外国から安価な労働力を入れようする発想は、社会に馴染まないでしょう。

 では、日本はどのようにして3KY仕事を解決したのか。それは労働環境の改善です。これで3K(きつい・きけん・汚い)は軽減されました。最後のY(安い)は、もっと簡単でした。賃金を上げれば良かったのです。

こうして、かつて「一億総中流」社会が出来たのでした。しかしながら、、東西冷戦後に吹き荒れたグローバリズムの嵐の前で、風前の灯になっているのです。

 つまり日本文明に合わない、言い方を替えますと日本の精神風土にあわない制度を、低賃金労働者を雇用したい思惑だけで、導入しているのではないでしょうか。