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「東洋のペスト」を掘り起こした遠因はパクス・ブリタニカ

「東洋のペスト」を掘り起こした遠因はパクス・ブリタニカ

 今回の新型コロナ感染症は、中国武漢での症例報告からわずか2ヶ月ほどで全世界に広がりました。原因はグローバル化によって人々の往来が活発になっていたからとされています。グローバリゼーションとは、まるで地球規模での人類の一体化のような肯定的な響きがあります。しかし実態はそう単純ではなくパクス・アメリカーナアメリカによる平和)と同義だという見方もあります。そうだとしますと、過去3回のペスト大流行もパクス(Pax)主義と明確に一致します。

 まず6世紀に東ローマで流行したのは、亜種名Antiquaで「古風なペスト」というような意味になります。ローマ帝国は、かつての隆盛期にアフリカ沿岸を含め地中海を全周的に支配しました。当時はここが世界そのものだったわけです。この頃がパクス・ロマーナ(ローマの平和)といわれ、パクス・アメリカーナという表現もここから派生したものです。ローマの覇権主義も暗に示しています。 

 分裂し衰退の流れにあった東ローマは、もういちどパクス・ロマーナを取り戻そうと戦争を繰り返していたのですが、時の皇帝ユスティニアヌスも感染するほどペストが蔓延しました。「ユスティニアヌスの斑点」はペストによる皮膚症状の代名詞になりました。彼自身は回復しますが、首都コンスタンチノーブルでも大量の死亡者が出て彼の夢は潰えたのです。

 その次のパンデミックは、亜種名Medievalisによるもので、その名のとおり「中世のペスト」です。これは先に述べましたようにパクス・モンゴリカが引き金になったといわれています。

 では1885年に中国雲南省で発生した亜種名orientalis、いうなれば「東洋のペスト」はなぜ発生したのでしょうか。それはこれまでの流れで言いますと、パクス・ブリタニカすなわちイギリス覇権が遠因と言えます。今日のパクス・アメリカーナとの連続性もありますから、ここでパクス・ブリタニカと{東洋のペスト」の関連性を俯瞰してみましょう。

1867年、ちょうど日本で大政奉還があった年に、サンフランシスコ・横浜・香港間を郵便船パシフィック・メールが定期運行するようになりました。一方ではイギリスがすでに16世紀にはマレー半島まで進出していましたから、東南アジア沿岸はすでにイギリスの内海になっていました。ですから中国への拠点となる香港を手に入れれば、インドから中国まで蒸気船を乗り継ぐことができたわけです。つまりアジアを支配することができたのです。

こうして東へと支配領域を広げていたイギリスと、西部開拓がついに太平洋に飛び出してさらに西側への「開拓」を続けていたアメリカが、香港よりも先にまず横浜で合流したのです。

ともかくも東洋のペストは香港を起点とするこの航路に乗り、アメリカやインドに広がりました。もちろん日本にもまず横浜から上陸しました。つまりイギリス覇権が蜂の巣を突いたような騒動を当時の清国に起こし、ペスト菌を引き出し定期航路に乗せたのです。具体的にはアヘン戦争が引き金となる太平天国の乱とそれに呼応した回教徒(イスラム教徒)の反乱です。

 

軍産・金融複合体による「自由な経済活動」

アヘン戦争の敗北から始まる中国に対する列強のやりたい放題は、今日の中国政府指導者によって「100年の屈辱」と表現され、施政方針に大きな影響を与えています。それによる経済活動がまた、このたびの新型コロナ感染症の蔓延と深く絡み合っていますから、ここでもう少し詳しく当時の事情を振り替ええてみましょう。

その頃の中国を統治していた清国は、広東を「出島」として西洋と限られた交易をしていました。イギリス側の窓口は東インド会社でした。中国からの輸入で特に多かったのが周知の茶です。貿易収支はイギリス側の大幅な赤字であり、銀の流出は制限されていましたから、対策としてインドからアヘンを持ち込んだのでした。

清国側としては違法なアヘンを没収して破棄するのは当然の統治権です。持ち込んだイギリス側に抗弁の余地はないはずだったのですが、ここに「アヘン戦争」が勃発し、炸裂弾を搭載した小型蒸気船が中国の沿岸や河川を機敏に動き、中世のままの軍備だった清国軍を撃破しました。

アヘン取引をしていたのは複数の民間商社でした。しかし東インド会社を母体とする商社はロンドンでロビー活動を行い、イギリス軍を動かしたのでした。つまり世論を誘導して議会を動かし軍を使用したのは、国王ではなく大企業とはいえ民間会社だったのです。

民間会社の権力の源は、国債・株式市場そして中央銀行でしょう。これらのシステムが産業革命の中で形成されていたのです。政府が発行する国債を、中央銀間接的に消化する仕組みが、出来ていたのです。

政府は、もはや民間創立の中央銀行に頭が上がりませんから、自国企業が海外で自由な経済活動ができるよう軍隊を動かすという、今日的な軍産金融一体による覇権主義の展開が始まりました。軍隊といっても中世のままの軍備しかないアジアやアフリカへの派遣は、軍事パレード程度の小隊で良かったのです。そのことをヨーロッパに知らしめたのはアヘン戦争だったといわれます。

清国のみならず日本の幕府も震撼したアヘン戦争ですが、イギリスの民衆は、ナポレン戦争とは異なり辺境での仔細なことですから、ほとんど知らなかったでしょう。この戦争の結果、香港がイギリスに割譲されました。香港は航路の要所としてだけではなく、後に香港ドルを発行する銀行が開設されてイギリスにとってのアジア金融センターになりました。この銀行の支店が、本店開設の翌年には、幕末の横浜に開設されました。

つまりイギリスは軍産・金融複合隊を形成して、好き勝手に経済活動ができる体制をアジアで確立したのでした。

 

内戦と難民による「東洋のペスト」の発生と拡散

 アヘン戦争終結から清国の統治力は落ち、列強による奪い合いが辺縁部から始まり、中国はこれから一世紀にわたり渾沌とします。まず最初は太平天国の乱でした。1851年から13年間に及ぶ乱の首謀者は、洪大全です。彼は、客家人すなわち漢民族の末裔を父に持つ家庭に生まれました。勉学にいそしむのですが、国と地方すべての科挙試験に失敗します。そもそも当時の清国はアヘン戦争後で新たな役人を採用する状況ではありませんから、狭き門だったでしょう。

つまり今日の日本でいう就職氷河期の若者で、やはり「ひきこもり」になりました。

 ある日、夢か幻か、キリスト教の啓示を聞くのです。当初は仲間をつのりキリスト教の団体を形成します。正式な宗教指導者はおらず、独創的なキリスト教解釈だったわけですから、平時であれば、平凡なカルト集団だったでしょう。しかしもともと仕事もなく飢えを凌げない民衆がアヘン窟に集まっていたのですから、アヘン戦争で絶望的な状況になり、行き場のない若者たちで集団はしだいに大きくなりました。それから太平天国という理想の国家建設へと走り出し内乱が始まりました。ところが内戦への参加者たちも、これは太平天国の建設のためなのか、あるいは漢民族の再興なのか、それとも清国やイギリスへの抵抗なのか、共通の理由は乏しく、それぞれの勝手は動機で暴徒化して中国南部を中心に殺戮がくり返されました。

 こうした中で現在の中国雲南省において、錫鉱山の労働争議から回教徒の反乱が発生しました。この反乱が山中で静かにしていたはずのペスト菌を引き出したといわれています。大量の難民が陸路でベトナム・タイ・カンボジアからミャンマーまで移動しました。こうした複数の内乱に続く数十年間で800万人が辺境地や海外に流出したといわれます。

 清国もその前の明国も、民間交易も移民も禁じていましが、日本の数ヶ所に「中華街」や「唐人町」という地名があることからもわかるように、華人の海外流失は古くから繰り返されていました。特に福建省からの移民が多かったようです。

 今日のような大使館や領事館による自国民保護の仕組みはありませんでしたから、自然に華人ネットワークが形成されていたのです。たいていはクーリ(苦力)といわれる力仕事や雑事に従事したといわれていますが、世界中どこにでも行けばなんとかなる、という希望はあったのです。

 こうして東洋のペストは半世紀におよぶ世界的なパンデミックになりました。

死亡者がもっとも多かったのはインドで、最多の1907年だけで130万人と報告されています。定期便に乗りサンフランシスコからアメリカ大陸全体にも流行したのです。第一次世界大戦期のインフルエンザの流行は有名ですが、同じ時期のペスト流行で、全世界では1000万人が死亡したと推定されています。

 もちろん中国本土にも広がったはずですが、太平天国の乱での死亡者が、当時の中国総人口の10%に迫る4千万人に達したといわれますから、当初の死亡者はこの中に含まれているのでしょう。ただ内戦の混乱が落ち着くと流行が見えるようになりました。1894年には香港と広州で流行しました。広州での死亡者は10万人弱と推定されています。また北里柴三郎らによってペスト菌が発見されたのは、この時の香港での流行でした。