少子化の正体

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「少子高齢化」時代の戦争(1/3)-「食うための戦争」から「産業化された戦争」へ

「食うための戦争」から「産業化された戦争」へ

 人類の歴史は戦争の歴史とも言えますが、日本においては定住農耕が始まった過去2千年間のことで、それ以前の1万年以上にも及ぶ狩猟採取・焼き畑農業時代の縄文遺跡からは、戦闘の痕跡は見つかっていません。日本の定住農耕時代の戦いは内戦で、海外への侵攻は、豊臣秀吉朝鮮出兵を除けば、日清戦争(1894年)から第2次世界大戦(1945年)までの50年程度です。明治維新からずっと軍事クーデター政権に国を支配されていた特異的な期間だったとも言えるでしょう。

逆に外国の侵略を受けたのは2回の元寇と、しいて言えばペリー艦隊による砲撃でしょう。双方ともに日本に対して自国の「保護国」になることを求めていました。

 定住農耕時代の戦争は、領主にとって支配地域の拡大、軍隊となる武士や、とりわけそれに仕える雑兵にとっては、「食うための戦場」でしたし、雑兵を送り出す村々にとっては、余剰労働者の「口減らし」でした(2)。この構図は、欧州においてもナポレオン戦争まで似たようなものです。戦争の形態に大きな変化をもたしたのは、いわゆる産業革命です。主力産業が農業から工業へと向かい生産性は飛躍的に伸びましたが、人口動態は農耕時代のまま多産でしたから、人口は激増の時代に入りました。

 産業革命以前は、いくら多くの兵を集めて訓練しても移動させるには隊列での徒歩しかありませんでした。食料は最終的に現地調達すなわち略奪です。それが蒸気船と鉄道の発明・開発によって一変します。ナポレオンの時代には大軍隊が10万人規模でしたが、100万人単位で動かせるようになったわけです。

 しかしそれと同時に難題が発生します。兵站(ロジスティクス)と言われる物流です。100万人の軍隊が使用する武器弾薬はもちろんのこと、食料や衣類・日曜品まで大量に生産して輸送しなければいけません。特に敵よりも高性能の武器を大量に供給することが勝因につながります。

 こうした武器の開発と生産を行う企業、今日でいう軍需産業がイギリス・フランス・プロイセン(後のドイツ)に勃興・発展してきました。戦争の産業化の始まりです(3)。この形態での最初の戦いがクリミア戦争(1854年-1856年)といわれています。主な参戦国はロシアと、それに対するイギリス・フランス連合軍です。黒海に突き出たクリミア半島は、私たち平均的な日本人には馴染みの薄い地域だったのですが、昨今のロシア・ウクライナ戦争に関する報道で、地図を日常的に目にするようになりました。

クリミア戦争 :ウィキペディアからの画像引用

 半島先端のセヴァストポリ要塞の攻防が勝敗を決する激戦でした。敗戦したロシア陸軍は戦争開始時に98万人いて、45万人の死傷者を出したにも関わらず、戦争終結時には180万人に増えていたのです(3)。当時のロシアには口減らしのためにも徴兵する若者は幾らでもいて、国土の広範囲から鉄道で輸送できたのです。

しかし海上をイギリス・フランス軍に封鎖されたロシア陸軍にとって、終着駅から要塞までの残り数kmの輸送が前近代的でした。軍隊は徒歩で移動できるとしても、半島北側の草原を馬の力で輸送しなければいけなかったです。農民が使う馬車を12万5000台も徴発しましたが、兵士への武器や食料の輸送が間に合いませんでした。こうした状況に陥った最大の欠陥は、馬も生き物で食べて・休み・寝ないといけないからです。しかも馬は家畜ですから、10万頭以上の馬の世話を人間がしないといけません。道端の草を食べつくせば、馬草を刈り入れて運んでこなければいけないのです。つまり兵站(ロジスティクス)が敗戦の一因となったわけです。

 

 扇動される民衆

 産業革命後のロンドンやパリといった大都市の人口は爆発的に増加していました。それに識字率の上昇・製紙や印刷の機械化による合理化・廉価化によって、新聞が発行部数を伸ばしていました。それでもクリミア半島でのトルコ帝国とロシアの戦況がロンドンの新聞に掲載されるのは10日後でした。開戦中に戦地からロンドンまで有線での電信を開通させませした。これで戦地のロイター記者が記事をロンドンに打電し、その日のうちに新聞で報道できるようになったのです(4)。いつの時代も市民が釘付けになる「戦地からの実況中継」の始まりです。

 ロシア軍はすでに炸裂弾を有していましたが、トルコ軍の近代化は遅れていました。後に述べますが、アヘン戦争におけるイギリス軍と清国軍(当時の中国)と同じような艦船・武器装備の近代・中世の差です。圧倒的な火力の優位性にたつロシア軍がついに、黒海対岸のトルコ帝国の都市シノプスを砲撃します。これがロンドンで「シノプスの虐殺」という文字で報道されました。この「虐殺」という言葉がセンセーショナルにロンドン市民の正義感に火を点けたでしょう。 もともとイギリス・フランスの政府や軍はロシアによるコンスタンティープルの封鎖は「まずい」と考えていたのですが、参戦への機運が市民側から高まりました。

 クリミア戦争開始から一年後にトルコ帝国の援軍として、イギリス・フランスが参戦しました。しかし本物の戦場は、ロンドンのカフェで読んで正義感と冒険心をかき立てられだ新聞記事とはまったく掛けなれた、狭い半島に敵味方総勢200万人による肉弾戦でした。

 ナポレオン戦争の頃には、悲鳴を上げながら損傷が激しい四肢を切断していたのに比べますと、クロロホルムを用いた全身麻酔下とはいえ、基本的な処置は同じ切断でした。こうした負傷兵の惨状を知って、ナイチンゲールが活動を開始したのは有名な話です。

 つまり、新聞の汎化によって市民は情報を得ることができるようになった反面、見えない力によって洗脳・扇動されるようになったということです。日本の先の戦争では新聞・ラジオは大本営の拡声器でしたし、現在においては、サイバー空間を利用した「認知戦」といわれるまでに、この分野は「発展」しています。

 給与がまったく上がらず、さまざまの指標が縮小しているこの「失わらた30年」も、これから折に触れて書いていきますが、インターネットを含むメディアによる洗脳・扇動と無関係ではないのです。

 

 

  企業が国軍を利用する時代の幕開け

  時代はクリミア戦争と少し前後しますが、イギリスと清国の間で、アヘン戦争(1840年―42年)がありました。中高生用の歴史教科書的な記載は、以下のとおりでしょう。

「イギリスは、インドで製造したアヘンを、清に輸出して巨額の利益を得ていた。アヘン販売を禁止していた清は、アヘンの蔓延に対してその全面禁輸を断行し、イギリス商人の保有するアヘンを没収・処分したため、反発したイギリスとの間で戦争となった。」

アヘン戦争 :ウィキペディアからの画像引用

 ここで重要なのは保有していたのは、「商人」だということです。商人というと、少人数の「ならず者」たちのようなイメージを抱かせますが、当時の有名な商社です。アヘン戦争で利権をさら拡大したこの企業は、現在も謎に包まれた巨大コングロマリッド(複合企業)として香港に存在し、世界の経済に大きな影響を及ぼしています。

 実はアヘンを没収された商人が、ロンドンでロビー活動を行い、議会を動かし、イギリス軍を後ろ盾に使ったということです。清国にしてみれば国家の命運をかけた戦いでしたし、事実この敗戦は、現在の中国支配層がいう「屈辱の1世紀」の始まりになりました。

 一方の蒸気船と兵器の近代を遂げたイギリスにとっては、どこにいても養わなければいけない兵士と、時間とともに劣化し、使用しなければ廃棄することになる火薬を用いた、国民も知らないような遠い異国での小さな紛争でした。事実、この戦争期間中では、イギリスの軍事予算は減少していました(3)。

 こうした企業の利益を守る小さな戦いを、アジア・アフリカを始め全世界で展開しているうちに、気が付いたら大英帝国ができていたという見方もあるほどです。

 こうした外国における自国企業の勝手な振る舞いを「開かれた自由な経済活動」とよび、それを保護するために軍を派遣する方式は米国に受け継がれ、米国は建国以来、平均2年半に一回の頻度で戦争をしています。私たちはその米国と軍事的に深いつながりを持っています。この傾向は深まるばかりなのです。

 2023年2月現在、30年もの間、給与が上がらない中で、増税社会保障費の増額に喘いでいる国民を踏みつけるような防衛費倍増です。私たちは平穏な暮らしの中での出産子育てどころではなく、「失われた40年」に向かいつつあります。

 私たちの生活とりわけこのブログのテーマである出産子育てと軍産複合とは、関りがないように見えますが、このように先方は深く静かに絡みついてきます。ここではせめて頭の片隅に置いておきましょう。

 

(2)「新版 雑兵たちの戦場」2005年 朝日新聞社 藤木 久志 著

(3)「戦争の世界史 上下巻」2014年中公文庫ウイリアム・H・マクニール著 (高橋 均 訳)

(4)「日本人のための第一次世界大戦」 朝日新聞出版 板谷 敏彦 著