少子化の正体

「80・2.0の壁」とは?

アシタカやエボシたちが生きた「無政府」時代

 

 

 この章では、「もののけ姫」の時代背景から、キャラクターたちのプロフィールを浮かび上がらせて、彼らにとってのタタラ場とは、どのような場所だったのか、考えてみたいと思います。

 

通貨はなかった

 まず里に下りてきたアシタカは、街道が交差するあたりの人通りが増えたところにある露天市で、ほかの旅人たちと同じように食料を求めます。しかし彼は、米の代金としての貨幣も持っていなければ、そもそも自給自足で購買とは縁がないエミシの隠れ里で生まれ育ちましたから、モノを買うという経験もなかったでしょう。ただヒイ様が持たせたのか、大粒の砂金をひとつ、米の代金として支払おうとします。

 しかし米と引き換えに砂金を出された女も、それを見たことはなく、ただの光る石、すなわち子どものいたずらなみの見え透いたペテンと思ったような態度をとりました。

 なぜこうなるのか、それはこの物語の時代背景とされる室町時代には、幕府もしくは朝廷発行の正式な通貨はありませんでしたから、アシタカはもとより商いをする女も、取引の代替通貨にたいして質店と同じ目利きが必要だったのです。このいわば物々交換は、歴史的な貨幣発明より前の話ではありません。貨幣はかつて存在したのですが、人々の信認を失い政府発行の通貨が捨て去られた後の話です。

 皇朝十二銭とともに消えた通貨発行利益

周知のとおり律令制度とともに貨幣鋳造という概念が大和朝廷に入ってきました。そして初めて発行されたのが「和同開珎」です。近年では、さらに古い時代の銀貨も出土しているようですが、ここではごく平凡な共通認識をもとに「和同開珎」が通貨の始まりとして話を進めることにします。

さて、最初の通貨発行から平安末期までに11回改鋳されて皇朝十二銭と総称されています。中央銀行がなかった当時は、通貨の発行は朝廷に利益をもたらしますから、通貨発行利益を求めて、いわゆる「子ども銀行」状態になり、実体経済以上の発行を連発して通貨の信用を落としたのでした。結果はハイパーインフレです。通貨は、朝廷が発行したのだから次の人も受け取るだろうという共同幻想から覚めた人々に見放されて、子どもの遊び道具程度の骨董品になりました。

 変わりに使われ出しだのが、中国の宋銭でした。自国通貨が国民の信用を失い他国の通貨が流通する現象は、現代でも時おり見られますし、中世の地中海沿岸でも見られました。それは金や銀の価値に裏打ちされた秤量貨幣(へいりょうかへい)でした。貨幣の発行体が滅亡しても、金や銀の含有量はそのまま残りますから、貨幣として信任されていたのです。

鎌倉から室町幕府まで通貨発行ができなかったということは、これらの政権は人々から政府として信任されていなかったことを示唆しています。もちろん平安朝廷の末期も同じです。信任がない分は、金や銀の含有量で補填するしかないのですが、そうすると通貨発行の費用が嵩み通貨発行の利益は減少もしくは消滅します。奇策としては、永続性のある朝廷が幕府よりも信用があったはずですから、貨幣を発行するという選択肢もあったはずです。加えて朝廷も歳入不足だったのですから、「打出の小槌」を欲していたでしょう。しかしもう皇朝十二銭に懲りて、通貨発行利益の獲得は、記憶の下層にすら残っていなかったのでしょうか。もちろん高額取引には金銀が、秤量貨幣として使われていたようです。しかし日常的には室町時代になっても宋銭が使用されていたのでした。市場の女が砂金を見たことがなかったのは当然だったでしょう。その日の糧の取引に、砂金は品質も重量も分かりにくいですから、向いていないのです。

室町時代には中国も明の天下になり、宋の時代は遠くなっていましたから、宋銭の新たな供給は、中国から古銭を集めて来ないかぎり、ほとんどなかったでしょう。すると今度は、皇朝十二銭の時代と反対の流れになり、流通する貨幣が少なくなりますから、実体経済が増加したとしても、金融経済が釣り合いませんから、経済活動は停滞ないし縮小する方向に向かいます。いわゆるデフレです。

さて砂金はどこで取れたのでしょう。それは渓流の川底です。金鉱石が何年かに一度の大雨で川の流れに乗せられます。そしてまた大雨による濁流で転がり割れます。こうして繰り返し砕かれ、軽い成分は押し流され金は重みで川底に沈んだのでした。それならばと砂金を求めて渓流を登れば、源流の金鉱脈にたどり着けるかもしれないという山師は、いつの時代でもいたでしょう。

しかし山師も無欲な者たちには最終的に勝てません。アシタカたちは、山間の隠れ里に先祖代々500年も住んでいましたから、その間に採取された砂金が、「もしものときの資金」として蓄えられていたのでしょう。富を蓄えていたのは、アシタカたちエミシだったのです。

 借金地獄

 アシタカに「ここの暮らしはどうだ?」と聞かれたタタラ場の女衆は「いろいろあるけど、下界よりはずっとましさ」「お腹一杯たべられるし、男がいばらないしさ」と答えます。

ではその下界の中心である京はどうだったのでしょう。まず生活に困窮する人々が大量に発生していました。貨幣そのものが不足していましたから、それを貸し付ける金融業者が軒を連ねるようになるのでした。担保を土倉に保管して現金を貸したのですから、現在の銀行や質店の原型でしょう。そして土倉は酒蔵を含めて、金貸しや富の象徴となりました。担保がない人々のために日銭屋も登場します。

こうした金銭貸借は、一時的には経済を活性化します。なぜなら借り手の負債は貸し手の資産になるからです。たとえば金融業者の場合、土倉の担保は負債ですが、貸し付けた現金は資産になります。貸せば貸すほど資産は増え利子収入も増加します。一方の負債は蔵の中にありますから、いつでも返済することができるわけです。

 借りた方は反対に土倉の担保が資産で、現金は文字通り負債です。しかしその負債でなにかの代金を支払えば、その支払いは受け取り手の収入になるわけです。日銭屋で借りた人もそれで何かを買うことができますから、売り手の収入になり、カネは天下の廻り物になって経済が拡大します。しかし長くは続きません。どこかの段階で借り手が利子すら支払えなくなるからです。

当時の利子率は「月額」10%程度でした。幕府はせめて6%にするよう「行政指導」をしましたし、寺社では信者を対象にしたのでしょうが、2%程度で貸し出すところもあったと言います。それでも年率は20%を越えますから、それに見合う名目経済成長がなければ、借りた方が破綻するのは時間の問題なのです。

こうして民衆は、将軍が交代したことによる「徳政」を求めていました。この徳政という概念は、もともと儒教が起源らしく、災害や凶作など民衆の生活の危機は、皇帝の不徳によるという思想があったようです。皇帝は自らの「徳」を民衆に示すために恵みを与えるよう求められたのでした。良く言えば古代の中国には法令ではなく人道主義ともいえる、貧困救済の仕組みが思想の中にすでにあったのです。

これが日本に伝わり民衆にも広がったのでしょうが、この騒動は結局のところ「借金をなかったことにしてもらえませんか」と、貸し手である土倉・酒屋・寺院に、最初のうちは懇願したのでした。

それはお困りでしょうということで、「徳政」を出しますと、今度は貸し手も立ちゆかなくなりますから両者の交渉はしだいに膠着します。やがて「徳政」の要求は過激になっていきました。

 貧困から略奪へ

タララ場のトキの夫・甲六の仕事は「牛飼い」でした。牛の背に鉄を載せて山を下り、米俵や生活物資に載せ換えてタタラ場に戻る役回りで、現在の運送業にあたるでしょう。隊列は石火矢隊に守られていました。

一方の下界である京では、荷役に馬が使役されていたようで、その仕事に携わる人たちは馬借とよばれていました。京は三方を山に囲まれた盆地で港がありませんから、米をはじめとする物資の輸送は、南は伏見・東は琵琶湖の岸まで舟を利用したとしても、最後の5里は陸路だけです。

このふたつのルートを含めた7つ以上の街道が京に通じていました。そこが入洛の関で、「京の七口」と言われていたのです。

どの関を通るにしても、馬借がいなければ、京はたちまち陸の孤島になる構図だったのです。そのことをいちばん良く知っていたのは、ほかならぬ馬借たちだったでしょう。

1429年に「正長の土一揆」が勃発しました。日本史上初の、民衆による一揆です。

もともと馬借たちは集団で生活し、山賊対策でしょうが武装集団に守られて、隊を組んで荷物を輸送していました。つまり怪しまれることなく武装集団化して、いつでも一揆を起こせる状態だったわけです。おまけに馬の背には当分の間の米がありますから完璧です。

 最初は近江の坂本・大津から始まり、ほかの地区の馬借たちが呼応し、借金苦にあえぐ農民を巻き込みながら畿内に広がりました。その直前に凶作・流行病がありましたから、貧困は十分に熟成され行き渡っていたことでしょう。

 ただこの時期にはまだ、偶発的な場合は別にして打ちこわしや略奪ではなく、延暦寺の僧兵のような、断れば戦う意思を示しての強訴だったようです。幕府側も鎮圧隊を出していますが、一揆は広がりをみせ、ついに京に乱入したのでした。幕府として徳政令を出したわけではありませんでしたが、ついに貸し手が折れたのです。

こうした債務の不履行による貸借関係の整理は、どちら側に感情移入するかで、印象はまったく異なります。しかしはっきりしていることは、信用の収縮が起きて経済停滞から脱出できないということです。「徳政」の旗を掲げて、「借金をなかったことにしろ」と集団で強訴されますと、健全な貸し手はいなくなり、金融は闇に支配されます。それを受けて今度は、健全な借り手が当座の資金を手当てできなくなるでしょう。やがて決済ができない商人が出てきます。そうしますと馬借が運んできた物資を受け取れない。あるいは馬借の運賃そのものが支払えないという負の循環に入るということです。 

 予期せぬ災害による一時的な凶作や疫病による貧困なら、支払いの猶予あるいは利子の減免など債務関係を見直して支援することは、いつの時代でも人道的ですから貸し手の信用にもなるでしょう。しかし債権放棄が常態化すれば、富の再配分すなわち福祉の意味がありますが持続性がありません。やはり金融業として成り立たないのです。

ところで民衆が生きるには働いて生産するしかないのですが、農村はすでに人余りで口減らしが必要でしたし、都市は内部での人口増加に加えて、周辺からの流入で溢れていました。このあと年月が経つにつれて、さまざまな強訴を掲げて一揆が頻発するようになりました。一揆とは、もともと直接的に暴動を指しているわけではなく、宗教や職業あるいは階層など、何か同じ価値観を持つ集団、いうなれば「一揆の衆」という意味だったようです。

ここまで追い込まれると、民衆が食料を得る方法はただひとつ、略奪です。生産に向けられるべき民衆エネルギーは、破壊に向かったのです。

これは洛中に限ったことでありません。アシタカがエミシの里を出てすぐに、農村を襲う野武士の群れと遭遇しますが、あのような絵図が至るところで繰り広げられていました。