少子化の正体

「80・2.0の壁」とは?

娘たちは、なぜ・だれに売られていたのか

 

 エボシは売られた娘たちを買い戻しては、タタラ場に連れて来たと、アシタカにだれかが語ります。トキもおそらくはそのうちの1人でしょう。では娘たちは、なぜ売られたのでしょう。また買ったのはだれなのでしょうか。それはこの物語では明らかにされていませんから、いくらかの史実をもとに、推測するしかありません。

この物語の最終局面に近いシーンです。エボシが石火矢隊をはじめ、男衆を連れてシシ神との最終戦に向かったあとに、武装集団がタタラ場を襲って来ます。

「鉄」を奪おうとしたようでした。地侍と言われる、まともな衣類もなく裸同然の姿に鎧や冑を付け武器を持った男たちです。戦術にも疎いようで、タタラ場からの砲撃で敗走します。しかしその背後に家紋の幟(のぼり)を立てて馬に跨る鎧冑に完璧に身を包みこんだ正規軍が控えていました。アサノ公方の武士たちです。この時代の「公方」とは、室町幕府の代理権者ですから、圧倒的な公権力でした。

応仁の乱が終わり、京から全国に持ち出された武力は、戦乱の幕開けとなっていたのですが、たとえば戦国大名の軍隊を仮に100人としますと、騎馬姿の武士は10人たらずでした。残りの90人は雑兵と言われる、いわば日雇い非正規の兵士や人夫たちだったのです。

これら雑兵も三層に分けられていました。まず雑兵の一番上位は、かせ者・若党・足軽など、主人とともに戦う「侍」です。武士と侍は、言い方の違いだけのような印象ですが、そうではなかったようです。武士の方が位は高いうえに常勤、一方の侍は非常勤という違いもあったのです。侍衆の下層が、中間・小者・あらしこ・とよばれ、馬を引き槍を持つ「下人」、さらにその下が夫・夫丸といわれ物を運ぶ「百姓」でした。

 戦闘を行う兵士は侍までで、それより下位はいわば戦場の労働者すなわち非戦闘員。とはいえ兵站を担っているわけですから、軍の一部であり攻撃を受けない保証はなかったでしょう。さらにこうした戦闘集団の廻りには、戦場のハイエナである山賊・海賊・奴隷商人が蠢いていました。

 武士には戦果によって褒賞があり、一国一城の主への昇進も夢ではなかったでしょう。それに対する雑兵には、その日の米・塩・味噌が与えられたと言います。雑兵たちのボーナスは掠奪・乱捕りです。乱捕りとは、野生動物でも狩るように人々を奴隷として使用あるいは売るために捕らえることです。

 つまり勝てば官軍ですから、正義の倹断権があり、生き残りを成敗して資産を処分するのが「習わし」だったのでしょう。

戦国では、雑兵や山賊・海賊によって負けた陣営の村は掠奪され、女・子どもは奴隷商人の手に渡ったのです。もし勝ったとしても、ハイエナたちが機を見ながら待ち構えていますから、うかつに姿を出せない状況なのです。

 この雑兵による略奪・奴隷狩りや放火は、城攻めの時に城下をかく乱する戦術のひとつだったともいわれています。しかし集めた雑兵たちの質が悪いと、略奪に夢中になって、攻撃命令に従わず戦闘を放棄することもあったと言います。

 ではこのような奴隷狩りはいつから始まったのでしょうか、それは明確ではありません。ただアシタカの村のみならず、近年まで狩猟採取の生活をしていた世界の小数民族には奴隷はいませんから、定住農耕が始まった時からということにして間違いはないでしょう。世界史的にも、古代エジプトギリシャ・ローマが、見方によっては奴隷による文明であることからも、誤りがないことが検証できるでしょう。

 さて娘たちのほとんどは、このようにして人身売買すなわち奴隷市場に出されたわけで、けっして一家の困窮が原因で、父親によって売られたわけではなかったのです。では奴隷とは何か、それは使役される労働が過酷かどうかよりも、ほかのだれかに所有されている人々のことです。家畜と同じように譲渡売買されるのです。逆に言いますと、譲渡売買が可能であったから、この娘たちをエボシが買い戻すことができたわけです。

 ですから、女衆は侍たちの奇襲に必死の抵抗をします。それはエボシへの義理立てや責務からだけではなかったでしょう。もっとも強い動機は、もう二度と奴らに乱捕りされたくない、それならば死んでも良いという覚悟からだったでしょう。

 自ら改良した銃を持った病者も、同じような気持ちだったでしょう。進んで戦闘に加わりました。またもや非人としてあつかわれる流浪の旅に出る気など、まったくなかったのです。

 ではつぎに娘たちはだれに売られていたのでしょう。国内とは限らなかったのです。時代は少し下りますが、史実を見てみましょう。

 

 信長が譲り受けた黒人奴隷

世は戦国の16世紀末のことです。織田信長は宣教師が連れていたアフリカ系の奴隷に目を惹かれました。身の丈は今風に言いますと182cm以上、当時の日本人からすれば大入道でした。宣教師は護衛として連れていたのでしょう。

この男は身体に墨を塗っているにちがいないと、信長が身体を洗わせると、色が落ちるどころか、その肌はますます黒く光りました。信長は宣教師からこの男を献上され、弥助と名づけて武士にしたのです。弥助は生き延びましたが本能寺の変に遭遇していますから、信長の側近になったことが伺えます。

やがて豊臣秀吉の天下になりました。南九州の豊後と島津は戦いを繰り広げましたが、特に豊後の大友家改易のあとは、人々を守る武力はなく、島津による蹂躙の限りが尽くされたのです。すでに述べましたように武士たちの後ろには常に雑兵や「ならず者」たちがいました。

変わることなく、彼らによって戦利品としての奴隷狩りが行われていたのです。国内での売買もありましたが、九州ではポルトガルの奴隷商人に実に安価で売り渡されていたのです。当時のポルトガル人がマカオから日本に持ち込んでいたのは綿織物で、その対価は、銀・刀剣そして奴隷でした。乱捕りされた奴隷たちは、ポルトガルのアジア貿易拠点であるマカオに輸送され、そこから東南アジア・インドなどのポルトガル人居住地域あるは本国へと送られたと推測されています。こうして日本から積み出された奴隷の数は、定かな記録はないようですが数十万人と目されています。これを知った秀吉が、ポルトガル商人に問いただすと、日本人が売るから買うのだ、という理屈でした。

こうしたことが「バテレン追放令」や「人身売買禁止令」につながっていきます。さらに「人身売買破棄宣言」を出しています。これは、これまでの奴隷売買契約は無効であり、奴隷たちをもとの在所にもどせ、という命令です。

秀吉は、ポルトガル商人にも、銀貨は支払うから船の中の奴隷を解放するよう要請します。秀吉は、朝鮮半島では鬼畜のような評価ですが、人類史上ではギリシャ時代から数えて、最初に奴隷を解放した国家権力者であったといえるでしょう。

ちなみに欧米での奴隷解放は、秀吉から200年以上も後のことでした。ヨーロッパでもっとも早かったイギリスが1807年、最後がオランダで1863年でした。自由と平等の国アメリカでは、秀吉による奴隷解放の後に、その制度を開始して、中南米も含みますが延べ1500万人の奴隷をアフリカから乱捕りしました。そして有名な奴隷解放は1865年のことだったのです。

こうして欧米における奴隷解放の年号をならべてみますと、それぞれの国での産業革命の時期と重なっていることがわかります。つまり定住農業から重工業へのパラダイムシフトの中で、奴隷は形式的にせよ解放されて賃金労働者になったといえるでしょう。宣教師が奴隷を連れていたことからもわかるように、奴隷を解放しようとする宗教や人道主義のうねりなど、この時代にはまだなかったのです。