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シシ神殺しの黒幕は唐傘連?

 

 唐傘連とは何者か。素性は明らかにされていませんから、またトンデモ説を展開するしかありません。まず言えることは、師匠連を、石火矢を持つ機動部隊としますと、唐傘連はおそらく科学部隊だということです。

根拠となるキーワードは「不老不死の力」それから「毒針」と「火薬」の3つです。それからこの組織の背景にあるのが、唐傘の「唐」でしょう。これらは同じ幹から出た枝のように、見事につながっています。

 

不老不死の力

まず不老不死の力は、不老長寿の妙薬と同じ意味と解釈しても良いでしょう。この妙薬は、かつて東西の多くの権力者が求めていました。権力者ではない人々も求めたはずですが、民衆はその日を生きるのが精一杯で、具体的な行動に移すための富や権力といった手段がありませんでした。

行動に移した歴史上の人物で最も有名なのは、やはり秦の始皇帝です。持ちかけたのは、医学はもとより広い分野の知識にあふれた「徐福」でした。おそらく老いを嘆く皇帝を傍で見ていてそう提案したのでしょう。徐福は、小国を作れるほどの人員と金品をもらい妙薬探しに出ました。しかしそれを手に秦に帰ることはなく、やがて始皇帝兵馬俑の近くのどこかに永眠しました。

じつのところ徐福は、始皇帝が存命していた時から妙薬探しを止めて小国を創ったと、司馬遷史記に記されていると言います。これだけですと、妙薬探しは徐福のペテンとして終わり、中国の医学や食文化に影響を与えることはなかったでしょう。

しかしそうではありませんでした。それから2千年あまり過ぎた今世紀に入って、湖南省の井戸から秦時代の大量の木簡が発見されたのです。それは辺境の地にまで至る中国全土への始皇帝からの命令文でした。その一部が「不老長寿の妙薬を探せ」です。

 それに対する地方政府からの返信もあると言います。いわく「そのような薬はまだ見つかっていないが、引き続き探している。」またほかの地方からは、「地元の霊山で採取した薬草が、効くかもしれない。」といった内容です。始皇帝は残虐な刑罰や、焚書坑儒でも知られる暴君でもありますから、地方政府の長も、荒唐無稽な命令として無視することは出来なかったでしょう。もし何もしていないという密告が宮廷に伝わると、返信の木簡一枚で文字通り首が飛ぶからです。

こうして、それまで各地域の民間療法程度であった漢方医学が、国家事業になって持続したのでしょう。草木の根や葉はもとより、動物の爪や骨それに熊の胆から虎の睾丸に至るまでの内臓の薬効が調べられたのです。こうした流れの中で、今回の新型コロナウイルスとの関連が指摘されているセザンコウのウロコの薬効も知られるようになったのでしょう。薬の製法も、乾燥あるいは燻製や炙るなどしたものを、煎じたり、すり潰したりと、今日的な漢方薬の処方に近づいていきます。さらにこうした各地にあるばらばらの資料が、それから延々と年月が経つにつれて、いくつもの有名無名の書物にまとめられるようになりました。たとえば現在でも古典とされる三国時代の「傷寒論」や「もののけ姫」と重なる明時代の「本草綱目」などです。 

また、中国では医食同源という考え方が浸透して、食料としてだけではなく長寿を求めて野性動物を食べる習慣が今日まで続いているのでしょう。食料が十分に行き渡っているはずの現代に、ハクシビンやコウモリを食べるのも、この医食同源の思想からなのでしょう。

 

毒針

さてつぎに「毒針」です。まず『もののけ姫』の中に唐傘連の1人が身近に現れるのは、森と人間の戦いの最終局面で、イノシシたちの屍に埋もれた山犬をアシタカが助けようとする時でした。

「何をしている」とアシタカに発するその姿は、基本的に白装束に赤い頭巾を被ったジコ坊と同じです。しかし男は、目だけ出して、あとは白い布で覆っています。これは顔隠しなのか、あるいは今で言うマスクなのか、着用する目的はわかりません。

この男がアシタカに向かって吹き矢を放ちます。もともと仕込まれ構造だったらしく、唐傘の柄が吹き矢の筒になったのです。それを見ていた牛飼いの1人が叫びます。「毒針だ」。吹き矢に毒が塗られているのです。

さてこの毒は何か。食べ物などに混ぜて内服させるなら、毒物は何種か採取することが可能だったでしょう。しかし針に塗った程度の量を筋肉に注入するだけで、少なくてもその場で動けなくするほどの薬効を持つ毒素は限られています。しかも数日は持ち運びに堪えられるように安定した物質でなければいけませんから蛇毒や蜂毒は適していません。すぐ変性するからです。ましてや、当時は傷風菌の毒素を分離精製することは、考えすらも及ばないことでした。

 現実の話として、南米の先住民が古代から狩猟用の吹き矢に使用していた毒物として、クラーレといわれる植物由来のアルカロイドが広く知られています。同じような毒物を唐傘連が持っていたのかも知れませんが、ここで最も重要なことは、彼らは毒物に精通していたということです。

薬と毒は使い方次第で不可分の要素がありますから、これらの毒薬も、やはり妙薬探しの中で見つかったでしょう。そういうわけで、毒針を使う唐傘連の中に少なくとも1人は、薬物全体に精通した人物が居るのです。そしてその者が毒薬の抽出あるいは入手と、薬効を保つ管理をしているということです。唐傘の柄に忍ばせますと、すぐに使用できるというだけではなく、毒成分を遮光し乾燥を防ぐ効果があります。

 

 火薬

つぎに「火薬」です。『もののけ姫』で、イノシシたちが屍になる少し前の森の中でのことです。「ひどい匂い、鼻がもげそう。」サンが顔をしかめてそういうと、モロが答えました。「ただの煙じゃない、私たちの鼻を効かなくしようとしているのさ。見え透いた罠を張るものだ。」

たしかに大勢の人が尾根の上に集まり、何かを燃やして、もくもくと煙が立ち登っていました。その背後には、いくつもの唐傘が開き、本陣を張っています。やはりこの煙を起こしたのも唐傘連のようです。

では、この煙は何を燃やして発生させているのでしょう。それは火薬です。火薬なら爆発を起こすのでは、と考えるでしょうが、そうとは限らないのです。家庭用の花火でも、開封から数日しますと、着火しないことがよくあります。初歩的な火薬とは、その程度のものです。

少し説明しましょう。火薬は爆発物として、軍事用あるいは工事用として改良が重ねられてきました。しかし発明は、遅くても唐代の中国と言われています。黒色火薬といわれる古典的なもので、この時代も現在の家庭用花火も、基本的に同じです。製法は突き詰めますと、木炭・硫黄・硝石の練り合わせ圧縮です。

 コンクリートブロックくらいの大きさの火薬に導火線を付けて、尾根からイノシシたちに向けて蹴り落としていました。これらは急激な燃焼反応すなわち爆発を起こします。

ではどうしたら煙を発生するのか。それは簡単で火薬を劣化させれば良いのです。たとえば少量の水分を火薬に加えて細かく砕き、焚き火の中に入れれば良いでしょう。ときおり細かい火の粉が炎を弾くでしょうが、湿気た家庭用の花火状態ですから、発火せず嫌な匂いの煙を出し続けます。「私たちの鼻を効かなくしようとしているのさ」とモロが言った嫌な匂いの成分は、硫黄酸化物や、硝石からの窒素酸化物です。これらは嫌な匂いだけではなく、涙や鼻水を分泌させ咳を誘発させる刺激性があります。しかも空気よりも重いですから、尾根を下り地面を這うように森全体に広がるのです。苦しさから逃れようと、地上の動物たちは森の茂みから出て自然に高台を目指します。これを作戦として実行したのも唐傘連でしょう。

火薬は妙薬とは関係がないように見えますが、そうでもありません。むしろ大きく影響したでしょう。私たちは日常的にナトリウム・カリウム・カルシウムなどのほか、亜鉛マグネシウム・鉄といったミネラル成分を食物から摂取しています。不足する場合は薬剤として補給します。つまり妙薬には、ミネラル成分も必要なのです。

先に述べました黒色火薬は、いつだれが発明したのかは分かっていません。ただ唐代の書物に、初めて製法の記載があるとされ、羅針盤・製紙と並んで中国三大発明といわれます。

さて火薬の発見は、こんな感じではなかったでしょうか。私たちがすり鉢で胡麻と調味料をすり合わせるように、ミネラル成分を加えて薬を調合していたら、鉢の中でパチパチと火が飛んだ。恐る恐るまた擦ると、同じように飛ぶ。こうして火薬が発見されたのではないでしょうか。発見した人は、偶然を見逃さない知的で冷静な人だったことは間違いないでしょう。

硫黄と硝石・木炭は必須ですが、ほかのミネラルが混在しても、火薬の純度が落ちるだけで問題はありません。それらをすり合せますから、鉢の底で圧縮され摩擦熱も発生して、燃焼の条件は揃います。硫黄や硝石を加えても妙薬を調合することはできませんでしたが、良くも悪くも人類史に大きな影響を与える火薬を、偶然にも合成したのです。

 

 唐傘の「唐」

最後は「唐」です。唐傘連の首脳は、明国が日本に定住させている当時の武官だったのかも知れません。定期的に日本を訪れていた明国からの使者たちは、彼ら長期滞在者から日本の時事について情報を取っていたのでしょう。

そう考えるのは、彼らの科学知識が当時の日本の水準からすれば抜きん出ていることだけではなく、十分な量の「硝石」を持っていると思われるからです。黒色火薬の製造に必要な木炭は、タタラ場にいくらでもあります。また日本は火山国ですから、硫黄の入手も問題ありません。しかし残りの硝石は、日本では産出されないのです。

江戸時代になりますと鎖国しましたから、魚の内臓を腐敗させたりあるいは糞尿から取り出したアンモニアから合成することが考案され定着しました。しかしそれまでの入手ルートは中国からだったのです。すなわち硝石は戦略物資だったわけです。硝石がなければ火薬を作れませんから、石火矢隊も戦力をなくしますし、エボシが軽装銃と鉄つぶてを作っても、やはり火薬がなければ銃は装飾品になってしまいます。

ここでもう一度、エボシにシシ神の首に不良不死の力あると思っているのかと問われたジコ坊の返事を振り返って確認してみましょう。「やんごとなき方々や、師匠連の考えはわしには分からん。」 

師匠連は名指ししていますが、その上層部は「やんごとなき方々」とあいまいにしています。しかも「方々」と複数になっています。これは雲の上の人たちという意味でしょうから、ミカドや将軍それから明国からの使者たちの3者を意識しているのかも知れません。

当時の明国は、航海技術だけでも、日本とは比較にならない異次元の国家でした。

永楽帝の時代には、鄭和を指揮官とする2万人からなる船団を組み、インド・アラビア半島・アフリカ東岸まで合計7回の航海をしていますから、冒険ではなく航路が確立されていた、ということです。船団の基幹船は150メートルあったと言われ、朝貢されたキリン・ライオン・ヒョウ・ダチョウなどを生きたまま持ち帰っています。すでに羅針盤を使用していましたから、造船・航海技術ともにヨーロッパに100年近く先んじていたわけです。

 日本を直接支配する意思はみせていませんが、日本側としては恐れは抱いていたのではないでしょうか。こうした力関係を背景に、やはり「やんごとなき方々」は明国の使者の意思を最優先させる必要があったでしょう。明国の使者が持ち帰りたかったのは、南海航海で持ち帰った野生動物からしますと、穀物や金銀財宝ではなく、明国にはない何か珍しいものだったのです。日本側もそれを朝貢したかったでしょう。

 それがシシ神の首だったのです。

シシ神は山奥に棲む獣類の長ですから、鳳凰とならぶ伝説の「麒麟」を彷彿とさせます。麒麟は、鳳凰と同じで不老不死でもあります。確かにアシタカとサンによってかかげられたシシ神の首は、麒麟を連想させなくもありません。  

 

唐傘連は「徐福たち」?

 ところで、これより千五百年前に徐福が妙薬を求めて目指したのは、東海の彼方の仙人が住むという蓬莱山でした。不思議なことに、その方角に日本はあります。妙薬探しは、戦乱で途切れながらも、千五百年も続いていたのです。

 しかも「徐福が来た」という伝説は、北は青森から南は鹿児島まで、日本中にあります。神社や墓もあります。共通しているのは、その名のとおり病を退ける「福」を持たらしたという言い伝えです。「来た」のは徐福自身ではないにしても、彼の意思を継ぐゆかりの人たちが何代にも渡って、妙薬を探す旅を続け、中国医学を日本中に伝えたのでしょう。 

 この「徐福たち」こそ、唐傘連の一員あるいはその先祖や子孫たちではないでしょうか。江戸期に入り硝石を輸入できなくなった後に、アンモニアから窒素を取り出すほどの化学知識を持っていたのも、やはり唐傘連ゆかりの「徐福たち」だったでしょう。